今月のことば_2023年04月

嫌なことは全部ボーナスポイントと思ったら
後でかえってくるわ
笑福亭鶴瓶

鶴瓶師匠のように私は中々全部かえってくるとは思えませんが、少なくてもその出来事が私の人生の肥やしにはなっているとは思います。というか、嫌だったこと良かったこと、すべての出来事で私の今が形成されていると思うのです。

364 御文をいただく  御文をいただく 其の六十五 五帳目第九通①

彼岸会
 彼岸は年に2回あります。春彼岸と秋彼岸です。 春彼岸は3月の春分の日を中心とした前後7日間、秋彼岸は9月の秋分の日を中心とした前後7日間のことです。 彼岸の始まりは「彼岸の入り」、最終日を「彼岸明け」、そして彼岸の真ん中にあたる春分・秋分の日を「中日(なかび、ちゅうにち)」と呼びます。その期間に勤める法会を彼岸会といいます。
 「彼岸」という言葉は、昔のインド地方の言葉であるサンスクリット語の「パーラミター(波羅蜜多)」が語源です。「向こう岸に至る」という意味があります。ですから彼岸とは私たちが今生きる、苦しみに満ちたこの世とは対照的な向こう側の世界、仏教の理想世界とされる悟りの境地や浄土のことです。
 春分、秋分の日は昼と夜の時間がほとんど同じ日であり、太陽は真東から登り、真西に沈みます。ですから春分・秋分の日は現世と浄土が最も近くなる日とされています。また西方浄土(彼岸)がどちらにあるかわかる日、私たちが進むべき道がはっきりする日なのです。
 お彼岸の日にはお墓参りをしたりして先祖偲びます。また先祖が私(たち)に「あなたも死す身だよ」と私たちに呼びかけてくださっていることに気づいていくことが大切でしょう。限りあるいのちをいただき、今を生きている私はどのように今まで生きてきたのか、だからこれからどのようにこれから生きていかないといけないのか、そういうことを振り返ったり考えたりすることもお彼岸の大切な過ごし方なのではないでしょうか。
 常入寺では毎年、城端別院の巡回法座と併せて彼岸会を勤めさせていただいています。よろしければ是非お参りいただきお説教を聴聞いただきたく思います。本堂を暖かくしてお待ちいたしております。

御文をいただく 其の六十五 五帳目第九通①
 私たちの浄土真宗の教えは南無阿弥陀仏と称えて浄土往生を願い生きていくというものです。しかし私たちの先輩方はただ南無阿弥陀仏と声に出して称えていれば済むものでもないとよくおっしゃいます、安心・信心が大切なのだと。この御文でも「当流の安心の一義といふはただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり」と書かれています。安心とは安心する心、信ずる心を意味します。浄土真宗での安らぎの境地とは、ただ南無阿弥陀仏の六字に込められた阿弥陀如来のお心にうなづいていくことですと書きとどめられています。私が今不思議にも称えさせていただいている南無阿弥陀仏というお念仏が、なぜ私のところにやってきたのか、なぜ私が称えてしまっているのか、そういうことを尋ねていくことが大切ですよとおっしゃっておられるのでしょう。

今月のことば_2023年03月

2023年3月_今月のことば
人生とは後悔するために過ごすものである
 コメディアン タモリ
慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす(お釈迦さま 涅槃経より)

363

2月15日はお釈迦さまが亡くなられた日です

お釈迦さまが亡くなられたことを「涅槃に入られた」といいます。「涅槃」とはさとりの境地、苦しみが消滅した状態を意味します。お釈迦さまがこの世でのいのちを終えたことにより、身体的な苦からも脱して完全な「涅槃」に至ったとすることから、お釈迦さまが亡くなられたことを「涅槃」と称しています。
お釈迦さまは紀元前5世紀ごろルンビニ(ネパールとインドの国境付近)で生まれ、やがて人生の無常を憂い出家されます。そして35歳でさとりを得ます。以後、各地を巡り、煩悩が引きおこす苦しみから逃れ、安らぎを得るという教えを人々に授けました。伝道の旅は、80歳で亡くなられる寸前まで続き、2月15日、旧暦の15日ですから満月の日にお釈迦さまはお亡くなりに成られたと言い伝えられています。お釈迦さまは自分の死が近いことを察しられ弟子たちにこのように説かれました。
「私の亡きあとは、私ではなく自分自身をより所として、また私が伝えた教えを、闇を照らすともしびとして、歩んでゆきなさい」
お釈迦さまは個人崇拝の対象となることを否定され、弟子一人ひとりが確かに、自立して進むことを求めたのでした。
そして
「もろもろの存在は変わりゆく。怠らず精進しなさい。」
という最期の言葉を残し、静かに息をひきとったのでした。
お釈迦さまのご命日を縁として勤めます涅槃会は全国各地で勤められます。また富山ではお釈迦さまのご遺骨を模したものとして4色で彩られた涅槃団子が配られることが多いです。

2023年井波別院巡回布教【布教使変更にないrました】

井波別院巡回法座
日 時 2月12日(日)ごご時30分より午後3時30分まで
場 所 常入寺本堂
布教使 立島秀哲師(小矢部市 称名寺住職)

通信362

年頭の寄せて
 2023年という新しい年を迎えました。常入寺有縁の皆様方、どうぞ昨年同様本年ももよろしくお願いいたします。
 昨年当初よりロシアがウクライナに侵攻し戦争状態になり、今も続いています。早く戦闘状態は終わらないかな、せめて休戦してくれないかなと思うばかりです。またその影響なのか世界中で物価高になっているようで日本においてもいろんなものが値上がりしてしまってますね。まだまだ値上げラッシュがつづくようです。特に四月からの電気料金値上げは本当に頭を抱えてしまいます。昨年のことに戻りますが、昨年夏の参議院選挙まっただ中に安倍晋三元首相が銃撃され亡くなってしまったというニュースも衝撃的でした。また殺害の理由が旧統一教会への恨みであったというのがまた驚きでした。思い起こしてみれば昨年は印象に残る事件・出来事がいくつかあり、今年の冬に北京でオリンピックが開催されていたことが遠い昔の出来事になってしまっているのが私の現状です。こういうことがあってか是非今年は平穏な日々を過ごせますようにと祈るばかりです。

世のなか安穏なれ
仏法ひろまれ
親鸞聖人

通信361

 皆さん、今月8日は私たちの教主釈迦牟尼仏がお悟りを開かれた日ということをご存じでしょうか?よろしければ覚えておいてください。
 今から約2500年前、インドの北、現在のネパールの地で、釈迦族の王の子としてお生まれになられたお釈迦様は、29歳の時に世の無常を感じて、約束されていた国王の座や妻子を捨てて出家をされました。6年もの間、厳しい苦行を続けられましたが、苦行をすることでは真理を見いだせないとお気づきになられ苦行をすることをおやめになられました。その後、苦行をされた近くの村でスジャータという娘さんより施された乳粥によって、苦行で疲れ切った身体を癒されました。その後近くにあった菩提樹という木の下で瞑想ををはじめられ、そして12月8日の早朝、暁の明星の輝きとともに、お釈迦様はついにお悟りをお開きになられれたのです。つまり、12月8日はは仏教の教えが生まれた大切な日を意味するのです。
 さてお釈迦さまのお悟りとはどういうものだったのでしょう。しかしこのことを知り納得できたならば仏様となることができます。ですからそう簡単に私たちが理解することは不可能でしょう。しかし方向性のようなものならば私たちは理解できるかもしれません。このことを知るためにはどうしてお釈迦さまが王様になる約束と家族を捨て出家なさったのかということを訪ねていくべきなのでしょう。なぜ出家なさったのかということを知る手がかりとして「四門出遊」という話しが伝えられていると思います。四門出遊の話というのは以下のものです。
 今から約2500年前のインドにお生まれになられたお釈迦様はお母様と産後まもなく死別されたということがあってかいろんな事に敏感になりよく物思いにふけられていたそうです。そのことを心配されてか父である王様は美味しい食べ物毎日与えられたり、楽しいイベントを催されたりしてあまり物思いにふけないように心がけれられ育てられました。ある時、お城の外の暮らしもどんなものか見てみたいと思ったお釈迦様は、家来を連れて、お城の東西南北4つの門から出かけることにしました。東の城門を出られたお釈迦様は、道に、歯がおち腰はまがり杖にたよって歩く老人の姿をご覧になられました。その枯れ木のような老人の姿を見て、人間、誰しもがやがて必ず、あのように老いていかねばならないと、老いの苦しみを痛感されたのです。またある日、南門を出たとき、病人を見られ、人は病むという病苦の現実を深く実感されました。そして西門を出られたときに、葬式の行列を見られました。先ほどまで元気だった人が、青白くなって、もう動かなくなる。そして、焼かれてひとつまみの白骨になってしまう。人は必ず死んでいかねばならない。やがて死ぬのになぜ生きるのだろうか。人間は必ず死んでいくという、死苦の現実をまざまざと知られたのです。最後に北門を出られたとき、出家した僧侶を見て、人間は限りあるいのちを、自分の欲を満たすために生きるのではなく、老いや病や死を超えたなにか普遍的な真理を求めるために生きているのではないだろうか。私も、老いても病んでも、そしていざ死ぬとなっても崩れない本当の幸せになりたい、と、真実の幸福を求める気持ちは日に日に強くなっていかれたのです。これが四門出遊の話です。
 お釈迦様は老・病・死、そして生という人間の避けることのできない苦を見抜かれ、その苦から解放されることを願い出家されたのです。

通信360

御  礼
10月31より11月1日まで当寺報恩講を勤めさせていただいたところ、コロナ下で感染の危険性がある中、またお忙しい中ご都合をつけてお参りをいただき、そして厚いご懇念をお運びいただき誠にありがとうございました。心より感謝申し上げます。
お運びいただきました御懇志金は大切に常入寺の維持管理、そして運営のために使わせていただきます。今後とも常入寺維持運営にご協力いただきたくお願い申し上げます。
常入寺住職 青井和成

御正忌法要
11月27日(日)午前10時より午後3時30分まで
おしっちゃはんとは東本願寺でつとまる御正忌報恩講(8日間勤められる宗祖親鸞聖人のご法事)にあわせて勤める仏事です。

御正忌のお勤め 午前10時より
尼講追悼会   午後2時より

 ☆法話は住職が行います。
 ☆尼講員でない方で昼食が必要な方は24日まで住職まで申し込みください、実費にてお分けします

359 報恩講案内号_御文をいただく五帖目第八通⑧

報恩講厳修
十月三十一日午後二時より十一月一日午後三時まで
報恩講ではお念仏の声を共に聞いていきましょう
日  程
10月31日(月)   午後2時より 午後のおつとめ
11月1日(火) 午前9時30分より 午前のおつとめ
      午後1時30分より まとめのおつとめ
お説教は各と勤めの後にあります。
お話しくださるのは 松井 勇さん(南砺市)です。
※例年のごとく1日にオトキを用意しています。しかし、感染症拡散予防のためオトキは持ち帰り用の弁当とし、遠方の方以外はご自宅で召し上がっていただきます。(予定)
※お参りの際にはマスク着用にてお参りください。

御文をいただく 其の六十四五帳目第八通⑧
後生って何?
 この蓮如上人がお作りになられた御文には「後生」という言葉が度々出てきます。私の読む限り重要なキーワードとして扱われているように思えます。単純に意味を訪ねていけば後の生ということですから、死んだ後のことと言うことでしょう。今、現代においてなかなか死んだ後と問われてもピンとこない人が多いのではないだろうかと感じてます。それは「死んだ後の世界なんてないよ!」「今しかないんだよ。」とお答えになられる方が多いようにお見受けします。それと関係しているようにみうけれれます。
 今を大事に生きるということでは大切な考え方だと思います。しかし次の生がないと考えるのも何か愛想んない感じを受けてしまいます。まぁ、本当のことは死んでみないとわからないことでしょうけど…。
 少なくても南無阿弥陀仏を称えられてきた私たちの先輩方は後生というものがあり、そして浄土に生まれるためにお念仏を称えてこられた事実をなかなか後生というものを信じ切れない現代を生きる私たちは押さえておかなければならないことでしょう。「非科学的だ」「古くさい」という言葉で片付けることはあまりにももったいないと思いますし、先輩方に失礼なことだと思います。
 少しぼやき気味になってしまいましたが、私的に考えると後生というのは死後の世界に限定せずに今より後、未来と考えてもよいと思っています。単純に後生があると思えている方はそのままでよいと思いますが…。このままの価値観で大丈夫か?このままの生き方で大丈夫か?このままで本当に未来はよいのかと問いかけていることばが蓮如上人が言われる「後生」という言葉だと理解されてもよいと思っています。後生という後の世を問いながら同時に今現在の私たちの生き方を問いかけていて、どんな未来を求めるのかと問いかけていることばなのではないでしょうか。

<御願い>
報恩講と御正忌法要を当寺で勤めさせていただきますので、
10月30日~11月1日、11月27日は皆様のお宅への月参りは休止します。
報恩講、御正忌法要のお勤めと併せて本堂にてお勤めさせていただきますでの是非とも報恩講、御正忌法要にお参りください。ご理解いただきますよう御願いいたします。 
またどうしてもと言われる方は前もってお寺まで電話ください。日の変更など対応させていただきます。

358

報恩講をお迎えします
 本年も10月31日から11月1日まで常入寺の報恩講をお迎えさせていただきます。コロナコロナというようになって三度目の報恩講をお迎えします。いつも通りホンコハン(報恩講)を勤めたいと思っているのですが、お寺のまわりでも感染したと言うことを聞くものですからやっぱりいつも通りにできません、感染対策を十分に講じながらも「浄土真宗の寺院の年中行事の中で一番大切な仏事」だということを踏まえながら開催させていただきます。皆様方、是非報恩講に一座でもお参りください。よろしくお願いします。
 報恩講というのは、いうまでもなく私たちの宗祖、親鸞聖人の祥月命日を縁として勤められる仏事です。本山である東本願寺では11月21日より28日まで7昼夜、8日間にわたって勤められます。私たちの住む富山では「ほんこさま」「ほんこはん」などといわれる事が多いです。人のような呼び方をするのが面白い表現ですね。それだけ親しまれてきた仏事ということなのでしょう。
 常入寺では10月に入った頃から準備に取りかかり出します。掃除が主な内容です。それも平生からちゃんと掃除をしておればここ場で時間はかからないのでしょうけどね(笑)。とにかく報恩講を迎えるために一生懸命準備をします。それは親鸞聖人のためであり、一人でも多くの方にお参りに来ていただきたいからです。
 どうぞ皆様方、当寺の報恩講に是非お参りに来てください。そして私たちの先祖が大切にして、また私たちに残してくださった南無阿弥陀仏というお念仏を同じ時同じ場にて皆様方と一緒に称えたいと思っています。よろしくお願いいたします。

お道具磨き
10月23日(日)午前9時~11時
報恩講をお迎えするにあたって仏具を皆さんと一緒に磨きます。尼講の方々を中心として行いますが尼講員でない方もよろしければご参加ください。男性の方もご参加ください。
磨き用のタオルを一枚ご持参ください。
感染防止のためマスク着用にてご参加ください

356_私たちには人生をやり直すリセットボタンはありません だけど いつでも生き方を改めることは可能です

 皆さんは人生をやり直したいと思ったことや、人生を消すことのできる消しゴムがあったならばどんなに便利だろうと思ったことはないでしょうか。私にはあります。ない人がいるのならばうらやましいというかその人にとって生きることが本当に充実していることなのでしょう。
 また私たちの人生はやり直しがきかないものだということを聞いたことはないでしょうか。輪廻転生という考え方もありますが、同じ人生というか同じ環境で二度生きられるということはないと思います。私として生きていることは一度きりなんだといっても言い過ぎではないと思います。そう言う意味で私たちは人生をやり直すことはできないのです。そういう一度しかない人生を生きているわけですが、いろいろ失敗をしてやり直せるのならば…と思ったことは皆さんにもあるのではないでしょうか。私たちの人生は初めや途中からやり直すということはできません。だけれども哀しむ必要もないのです。しっかり反省をして二度と繰り返さないと心に言い聞かせて生き方を改めて行くことは私たちには可能なのです。過去の失敗を忘れず、二度と繰り替えなさいようにとすることは私たちには可能なのですから。また改め直そうとする心が私たちにとって一番の宝物だと私は思います。

355_生きるということは変化していくということだ


今月のことばは先日テレビドラマを見ていてはっとした言葉を選びました。私たちは常に変化し続けているのです。肉体的にいえば生まれてきたときは赤ちゃんとして生まれ、大人になり、そして気づいたら老化していってしまっています。同じ状態ということはないですよね。先輩方とお茶を飲んでいると「去年できていたことが今年はなかなかできなくなっている」と言われることがあります。実感なのでしょうね。精神的にもずっと一緒というわけではないですよね。同じものをみても10年前と違った感覚で受けることもあります。それを成長ということなのでしょう。私たちは死を迎えるまで成長、変化し続けているのです。いろんな人とのであいによって、いろんな出来事に遭遇することによって私たちは変わり続けているものなのではないでしょうか。変改していくという自分の意思決定で変わっていっているというよりは受動的に私の思いを超えて変化していっていると思います。老化していくという変化を考えてみると今までできていたことがどんどんできなくなっていくという悲しい面もありますが、一方で長年生きる中で甘いも酸いも噛みしめてきた分、物事を多方面から見ることができいろんなものを引き受けていけるようになること言うことでもないでしょうか。老化ということも一面で考えれば成長しているともいえると思います。