369_多様性が担保されたということは正解が一つじゃなくなったということ

多様性が担保されたということは正解が一つじゃなくなったということ
 「多様性」ということをよく聞くようになりずいぶんとたっているような気がする。25年前、東本願寺で蓮如上人五百回御遠忌法要の教化テーマが「バラバラでいっしょ~差異を認める世界の発見~」であったと記憶している。これも多様性を認めていこうという方向のものだろう。
 今、外を歩いていてもいろんな言語が聞こえてくる。中国語っぽいもの、タイ語っぽいもの、もしかしたらベトナム語っていうのも。こんな田舎までいろんな国がおられるのが事実。もう多様性の社会になっていると言ってもいいのかもしれない。でも私たちの生活は何も変わらないし、価値観も変わらない。そして自分と異なるものに対してなんとなく拒否反応を起こしてしまっている。日本語でない言語を聞くとなんとなくびっくりする。何を言っているのかわからないということもあるのだろうけど。
 自分と違う言語の人がいるということは違う文化を持っている人がいるということ。いろんな価値観を持った人たちが一緒に暮らしているということ。いろんな価値観を持った人がいるということはいろんな正解を持った人がいるということであると思う。それを認めていくことが大事あり、そしてこれが一番難しい。
 日本人というひとくくりの中でもみんな同じ価値観を持っているのだろうか。いやそうではなくて一人ひとりの人生の中でそれぞれいろんな経験もしてきている。そのなかでそれぞれの価値観を持ち、それぞれの正解を持って生きているのではないだろうか。
 そしてそのところで何度かみんな苦しんでいるはずだ。皆さんも誰も自分を認めてくれないと嘆いたことはなかっただろうか。
 いろんな正解がこの世にあるのだと認識することから多様性社会を私たちが作っていく事ができるのだろうし、一人ひとりを認め尊敬することができるようになっていくのではなかろうか。