2024年井波別院巡回法座

井波別院瑞泉寺法宝物御巡回のご案内
日 時 2 0 2 4年2月12日(月)午後1時3 0分より
場所常入寺(富山市東老田)
布教使高岡市麻生谷長福寺住職藤井乗師
皆さまお誘い合わせて、お参りください。
※お心のあるお方は、下記の用紙にご記入の上、当日ご懇志を添えて申し出下さい。 (春秋の彼岸会、太子伝会に読経)

373_報恩講案内号

報恩講厳修
十月三十一日午後一時三十分より十一月一日午後三時まで
報恩講とは私たちの宗祖親鸞聖人のご命日を縁として勤められる年間行事の中で一番大切な仏事です。いわば親鸞聖人のご法事とも言えるものです。
報恩講では皆さんのお念仏の声をそして親鸞聖人のみ教えを共に聞いていきましょう

日  程
10月31日(火)   午後1時30分より 午後のおつとめ
11月  1 日(水) 午前9時30分より 午前のおつとめ
午後1時30分より まとめのおつとめ
勤めの後に毎回お説教があります。
お話しくださるのは 松井 勇さん(南砺市)です。

御文をいただく 其の六十七五帳目第九通③_雑行を棄てて本願に帰す
 これは親鸞聖人の信仰告白ともいえる文章です。この言葉を聞くと思い出す言葉があります。それは九月までやっていたNHKの連続テレビ小説「らんまん」で松坂慶子さんが演じた槙野タキさんが主人公の万太郎に発した言葉「何かを得るということは何かをすてるという事じゃ」という言葉です。
 親鸞聖人は本願に帰すと自分の生き方をあきらかにされるわけです。その信仰告白の言葉に伴って雑行を棄ててという言葉を付け加えられているのです。雑行というのは阿弥陀如来様が建てられた本願に基づかない行いです。本願に帰すということと雑行を棄てるということが同時性をもって語られています。一つの事を二つの側面から表していると言ってもよいのかもしれません。本願に帰するということは雑行を棄てるということなのだという意味も含んでいるのでしょう。
 これもあれも選び取っていくというのは選びではなく、何かを選び取っていくということは何かと決別していくということなのではないでしょうか。今の私たちの生活はこれとは違って、あれもこれもと抱え込んでいって結局、身動きのとれないようになっていってしまう生き方をしていることもこの言葉から教えられているのではないでしょうか。


372_ 初めまして春じゃのぅ、同じ春は二度とない


 私はいわゆるテレビっ子です。家にいるといつもテレビを見ています。見ていなくてもテレビがついています。テレビとともに生きていると言っても過言ではないかもしれません。(笑)テレビを見ていると、はっとさせられることがあります。その一つが今月の言葉としてご紹介している言葉、「初めての春じゃ、同じ春は二度とない」という言葉です。これはNHKの連続テレビ小説「らんまん」聞き取った言葉です。この言葉を受けて「初めての報恩講です。同じ報恩講は二度とない。」このような言葉を発したくなっています。今報恩講に向けて少しずつ準備をしているからでしょうか。
 皆さんはこの世に生をうけ何回目の秋を迎えられているでしょうか。その中で同じ秋はなかったはずです。毎年何かが違っていたのではないでしょうか。そういう意味で同じ秋はないのです。また秋とはこういうものだという思いで秋を過ごしてしまうと、いつもと違う秋と出会うことが難しくなるかも知れませんね。何事も初事として出会っていく事が大事だといえることでしょう。
 さて当寺の報恩講も本年も勤めさせていただきます。皆様にとっては何回目の報恩講の案内でしょうか。報恩講も毎年勤めさせていただいていますが、今まで同じものはありません。報恩講の中でいろんな出会いや気づきがあります。毎年同じ内容ですが、私の受け取りは毎年違うものがあります。
 皆さん方も是非当寺の報恩講にお参りください。その中で懐かしさに出会ったり、新たな気づきをもたらしてくださるかもしれません。初事としてお参りください。おまちいたしております。

370_一切の聖教といふもただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり


一切の聖教といふもただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり

 仏教でお経といわれるものはお釈迦さまが説かれたお説教が書きとどめられているものを指します。厳密に言うならば正信偈は親鸞聖人がお作りになられたうたですのでお経とは言いません。でも、諸先輩方のお書きになられたものも含めてお経と言ってきた文化もたしかにあったので一概にそれは間違いであるともいえません。少なくても仏教の肝要を記されているものをお経と言ってきたのでしょう。
 この世の中に異訳本を含めると八万四千のお経があるといわれています。私はそれをすべて見たこともありませんし、数えたこともありません。ただいえることはお経は誰かのためにあるのではなく、すべて私のために(皆様方一人ひとりにために)あるのです。私一人のためにお説きくださったのがお釈迦ですし、未来永劫の人々にお釈迦様の教えが伝わるよう願われて多くの方々がお経を編纂なされたり、翻訳されてきたのです。いわばお経とは私たちが成仏するための、言い換えれば仏となるための指南書です。お経にどんな力があるのか私にはわかりかねますが、不可思議な力を求めるためにお経を使うというより、本来的な意味で利用する方がお釈迦様はお喜びになられるのではないかと私は思っています。
 蓮如上人はそのお経について「一切の聖教といふも
ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり」と御文の中にお書きになられています。お経というのは南無阿弥陀仏という六字の名号を信じさせるためにあるのだと、きっぱりおっしゃっておられます。飛躍して訳しますとお釈迦さまが一番お説きになられたかったことは念仏を信じ称えさせるためにあるのだと。やっぱりここまで言うと言い過ぎですね。少なくても私たち念仏を称えるもののお経との付き合い方を示されているのだと思います。お経というのは誰かのために、先祖のために読むものではなくて私のために読んでいかなければならないものなのでしょう。なぜ南無阿弥陀仏の救いを阿弥陀如来がわざわざお作りになられたのか。お経を鏡として我が身を知り、阿弥陀如来の大悲のいわれに頷いていくことが大切なことなのではないでしょうか。

369_多様性が担保されたということは正解が一つじゃなくなったということ

多様性が担保されたということは正解が一つじゃなくなったということ
 「多様性」ということをよく聞くようになりずいぶんとたっているような気がする。25年前、東本願寺で蓮如上人五百回御遠忌法要の教化テーマが「バラバラでいっしょ~差異を認める世界の発見~」であったと記憶している。これも多様性を認めていこうという方向のものだろう。
 今、外を歩いていてもいろんな言語が聞こえてくる。中国語っぽいもの、タイ語っぽいもの、もしかしたらベトナム語っていうのも。こんな田舎までいろんな国がおられるのが事実。もう多様性の社会になっていると言ってもいいのかもしれない。でも私たちの生活は何も変わらないし、価値観も変わらない。そして自分と異なるものに対してなんとなく拒否反応を起こしてしまっている。日本語でない言語を聞くとなんとなくびっくりする。何を言っているのかわからないということもあるのだろうけど。
 自分と違う言語の人がいるということは違う文化を持っている人がいるということ。いろんな価値観を持った人たちが一緒に暮らしているということ。いろんな価値観を持った人がいるということはいろんな正解を持った人がいるということであると思う。それを認めていくことが大事あり、そしてこれが一番難しい。
 日本人というひとくくりの中でもみんな同じ価値観を持っているのだろうか。いやそうではなくて一人ひとりの人生の中でそれぞれいろんな経験もしてきている。そのなかでそれぞれの価値観を持ち、それぞれの正解を持って生きているのではないだろうか。
 そしてそのところで何度かみんな苦しんでいるはずだ。皆さんも誰も自分を認めてくれないと嘆いたことはなかっただろうか。
 いろんな正解がこの世にあるのだと認識することから多様性社会を私たちが作っていく事ができるのだろうし、一人ひとりを認め尊敬することができるようになっていくのではなかろうか。

368_祠堂経会案内号_御文をいただく 其の六十七五帳目第九通③


御文をいただく 其の六十七 五帳目第九通③

 親鸞聖人がお作りになられた正信偈は「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という言葉から始まります。実はどちらも南無阿弥陀仏ということです。親鸞聖人なりに言い直されたことばといえると思います。南無という言葉と帰命という言葉は同じ意味です。南無というのは元々むかしのインドの言葉です。そのインドの言葉の発音を漢字で書き表したのが南無となります。また意味から漢字で表したのが帰命になります。どちらも元々古いインドの言葉ナマスから来ているのです。
 余談ですが、今インドやネパールで交わらされる挨拶の言葉はナマステと言うそうです。あったときだけではなく別れの時も。ナマステはナマスとテに分解できるそうです。ナマスは敬礼・服従するという意味で、テは「あなたに」の意味です。意味からするとあなたを尊敬しますとなります。こういう意味の言葉が挨拶の言葉として使われていることに驚きというか頭がさがる思いがします。
 ナマステのところで書きましたようにナマスとは敬礼・従服を意味する言葉です。帰命という言葉も漢字を見ただけではなかなか意味のわかる言葉ではありませんが、南無と同じ、頭が下がります、という意味になります。ですから南無阿弥陀仏というのは阿弥陀仏に帰依するという意味があるのです。   (つづく)

366_御文をいただく 其の六十六五帳目第九通②


御文をいただく 其の六十六五帳目第九通②
《現代語試訳》
浄土真宗でいう心の安らぎとは、ただ「南無阿弥陀仏」の六字のこころに頷けたときです。六字の心ということを具体的に言えば私たちが南無阿弥陀仏と帰命するならば、やがて阿弥陀仏がたすけてくださるこころと言うことです。

 宗教とはある意味で生きていく中での安らぎを与えるものでしょう。その安らぎを浄土真宗では、ただ一つ南無阿弥陀仏のこころを、理解することと。ここではの述べておらられています。
 言葉を付け加えるならば今わたしが聞いたり称えたりしている南無阿弥陀仏という念仏は私を今救うがために阿弥陀如来様からお運びくださっているのだという事実に頷きそしてそれが安らぎとなるのです。
 念仏を称えてこられた先輩方が「信心」「安心」といっておられたのがこのことです。他人ごとで文章の意味からしたら難しいことではありませんが、私ごととして考えていくとわからなくなってきますね。阿弥陀さまからいただいた念仏と言われてもピンとこないのも確かなことでしょう。しかし他人ごとでも浄土真宗の教えを聞き続けていく中でやがて頷けるときもくるのではないかとも思います。阿弥陀差様がこんな私たちにもで私たちのために念仏と念仏を称える心を運んでくださっていいるのですから。そしてそのことを他力とおっしゃってこられたのでしょう。
 

今月のことば_2023年05月

落ち込んだあなたは頑張った証拠
明石家さんま

こんなこと言われたらちょっと元気になりますよね的なことばですね。インターネットをうろうろしていて見つけたことばです。

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4月8日はお釈迦さまのお生まれにならられた日「花祭り」を催しお祝いする日です
4月8日は、お釈迦さまのお誕生をお祝いする「花まつり」の日です。花まつりは、仏教寺院だけでなく、多くの仏教系の幼稚園や保育園、学校などで、広く行われています。
 お釈迦さまは、今からおよそ2500年前、現在のインド国境に近いネパールの地、ルンビニーの花園でお生まれになりました。お釈迦さまの誕生日のお祝いを「花まつり」というのはこのためです。
 シャカ族の王子としてお生まれになったお釈迦さまは、「ゴータマ・シッダールタ」と名づけられました。伝説では、お生まれになってすぐに七歩進み、右手で天を、左手で地を指差し「天上天下唯我独尊」と宣言されたといわれています。この言葉は俺がこの世で一番偉いのだという意味ではないのです。偉いのではなく尊いのです。なぜ尊いのかと言えば真理を悟る身だからなのです。いろんな事を省略して「人は誰もが、かけがえのない命を生きている」という、仏教のもつ人間尊重の精神を端的にあらわしていると言われることもあります。。またこの時に、お釈迦さまの誕生を祝った竜王が甘露の雨、すなわち甘い雨を降らせたとも伝えられています。そのルンビニー園の誕生の様子を表した「花御堂」を花まつりでは飾り、その中央には天地を指差したお釈迦さまの誕生のお姿を安置し、甘露の雨を模した甘茶をかけ、華やかにお祝いします。
 思いを巡らせれば、私達は皆、お釈迦さまと同じように、誰にもかわることの出来ない、かけがえのない「いのち」を生きている事に気づくことでしょう。人類が誕生して以来、数え切れないほどの人びとが生き、また現在、数十億の人びとが共に存在しているなかで、誰一人として「わたし」と同じように生き、悩み、考え、行動する人はいないのです。また、みんなかけがえのない「いのち」をいただいて生きているのにいつの間にか優劣をつけて喜んだりしてしまっています。世界のどこかで正義の名の下で殺し合いが繰り返されています。
 4月8日は、お釈迦さまの誕生をお祝いすると同時に、それぞれの「かけがえのないいのちの尊さ」に眼を向け、正しく生きることをお誓いする日にしたいものです。世界人類が違いを認め合いながら尊いいのちを生きる仲間として生きなければならないことに気づく日にしたいものです。
 老田仏教会では4月8日(土)午後より西二俣の長福寺さんで釈尊降誕会、すなわち花祭りを催します。よろしければお参りください。