祠堂経会を勤めさせていただきました。

6月19日から20日まで当寺祠堂経会を勤めさせていただきました。コロナ禍であるにもかかわらず選んでお参りいただき本当にありがたかったです。お説教は魚津市の佐賀枝立さんにお願いしました。祠堂って何?お布施って何?というお話をくださったり、ご自身の仏教の出会いについてもお話しくださいました。大きな大きなはたらきの中私たちは生活をしていて、仏法に出会わせていただいていることなのだろうということを思わせていただきました。

354_御文をいただく 其の六十三五帳目第八通⑦

祠堂経会厳修
二〇二二年六月十九日午前九時三十分より二十日午後四時まで

6月19日(日)
午前の部、並びに祠堂のお勤め
午前9時30分より
尼講のお勤め 午後2時より
午後の部 尼講のお勤めに引き続き
6月20日(月)
午前の部 午前9時30分より
午後の部 午後2時より
(午前の部12時頃、午後の部4時頃終了予定です)
※19日は尼講によるオトキがございます。(予定)
東老田尼講員以外でオトキをご希望の方は実費にてお分けします。6月13日までに住職に申し出てください。
※それぞれのお勤めのあとに法話があります。
法話は両日とも佐賀枝立さん(魚津市栄明寺住職)
がされます
※新型コロナウイルス感染症の拡大状況によって中止を含めて内容を変更する場合があります。(変更の場合は本堂前に張り出します)
※マスクをするなど感染症対策をしてお越しください。
どなた様もお参りできます、お気軽にどうぞ。
皆さんといっしょにお念仏のみ教えを聴聞いたしたいと思っています。
ご近所の方々をお誘いの上お参りください。 お待ちいたしております。

御文をいただく 其の六十三五帳目第八通⑦

 御文とは、蓮如上人という今から530年くらい前の方なのですが、その方が私たち門徒に念仏を勧められるために書かれたお手紙です。言葉遣いは昔のものですからちょっと考えないと意味のわからないところや誤解してしまうところがあります。また今の常識の中で生きているものが聞くとあれっ?て思うところがあるのです。特に女性に対する認識は今の価値観にはあわないと思えるところが沢山あります。この御文もその一つです。世の中では「五障三従の女人」と言われているが、とお念仏の目指す社会ではないですが今の社会ではこう思われていると紹介されています。女性は生まれつき五つの障りがあり、だからその時その時によって従って生きていかなくてはならないというのが五障三従という考え方です。今の男女ともに社会参画をしていこうという考え方とは相反するものですね。蓮如上人もこういう社会ではなく念仏してそんな社会ではない浄土に行こうと誘っておられるのですが、今聞くとわざわざ五障三従の女人ということをわざわざわざいう必要がないと感じてしまいます。
 でも「五逆、五障・三従の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて、ひたすら後生たすけたまへとたのまん人をば、(中略)みなことごとくもらさずたすけたまふべし」という言葉に救いを感じられた方々も沢山おられたこと事実でしょう。だからこと蓮如上人がおられた頃「女人講」という念仏を基とする信仰集団が沢山結成されたのです。

常入寺では祠堂を常時受け付けています。お寺に寄付することを祠堂といいます。身内が亡くなられたことを縁として祠堂されることが多いです。祠堂をなぜされてきたのかということを考えればそれはひとえに仏教(お釈迦さまの教えが)がいつまでも相続されるように、多くの人にとどくようにという思いからされてきたと思っています。祠堂される方の思いということもあるのでしょうが、それ以上に今亡くなられた人が願われてきたこととして、その思いを受け継いでこられたのでしょう。
 いつ祠堂すればよいのですかと聞かれることがありますが、寄付ですので、しなければいけないこともありませんし、いつということも決まってはいません。思い立ったときお寺にお持ちいただければありがたいです。また金額についてもお気持ちをお入れくだされれば結構です。決して多い少ないということはありません。祠堂しようというお気持ちがなによりお寺にとってこの上ない喜びですから。

353 知らざるを知らずと為すこれ知るなり

 「知らざるを知らずと為す是知るなり」知らないことを知らないこととわかることが本当の意味での知ると言うことです。という意味になるのでしょうか…。この言葉を聞いたとき私が住職になりたての頃ある先輩僧侶から聞いた言葉をふと思い出しました。それは「仏には仏の覚り 凡夫には凡夫の覚り」というものです。仏教というのは成仏道であり最終目的は悟りを開くことであります。当然私たちの関心事は仏様がお開きになった覚りとはなんだというふうになります。また仏様と同じような悟りを開きたいというふうになります。でもまずしなければならないのは私たちは凡夫なのだから凡夫の覚りなのだと教えてくださいました。また凡夫の覚りとは何かと言えば新しく何か知識を知っていくというのではなく凡夫でしかないんだなと自分のことを知っていくこと、凡夫としての自覚なのだと教えていただいたことがあります。
 仏となっていく道は決して平坦な道ではありませんし終わりの見えない旅のようなものだと言われています。ですからその道を歩み出せたとしても歩み続けることが容易ではありません。歩み続けるには初心を忘れないことが大事だと思います。自分は仏ではなくて今は凡夫なんだと。凡夫であることの悲しみに頷き続けて行くことによって仏に成る道を歩み続けていけるものなのではないでしょうか。私は仏ではないのだ、だから真実を知らず迷っている私なのだと知りつづけていくことが大事なことなのでしょう。