2024年井波別院巡回法座

井波別院瑞泉寺法宝物御巡回のご案内
日 時 2 0 2 4年2月12日(月)午後1時3 0分より
場所常入寺(富山市東老田)
布教使高岡市麻生谷長福寺住職藤井乗師
皆さまお誘い合わせて、お参りください。
※お心のあるお方は、下記の用紙にご記入の上、当日ご懇志を添えて申し出下さい。 (春秋の彼岸会、太子伝会に読経)

能登半島地震の被害について

皆様あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

さて、元日に起きた地震の被害についてお知らせします。当寺では震度5強の揺れがあったにも関わらす、そんなに被害は出てません。本堂は仏具が数個倒れた程度で何か修復をしないといけない状態の被害はありませんでした。台所では数個コップが棚から落ちて割れた程度でしたし、庭の燈篭の一基が倒れた程度で済んでいます。

冬準備

12月3日午前中、一時間ほどですが、御門徒さんの有志に集まっていただき、雪よけの本当前の三角屋根の設置、正面の木数本の雪釣り、境内整備をしていただきました。

御正忌法要を勤めさせていただきました

本山の報恩講に合わせて勤める御正忌法要を本日、11月26日、そして在所の尼講の追弔法要を午後から勤めさせていただきました。朝は寒かったですが、起きるには本堂の中は熱く感じるくらい暖かくなり、いわばお参り日和となりました。たくさんのお参りでした

2023年報恩講最終日

皆様のご協力によりなんとか今年もお勤めさせていただきました。コロナ下を経ていろんなものが見えてきて課題もいろいろいただいております。来年の報恩講に向けて少しずつ歩んでいかないとなと思わしていただいております

報恩講をお迎えしています

本日より明日まで報恩講をお勤めさせていただいています。

講師の方は宗祖親鸞聖人のご生涯について、特に親鸞聖人が法然上人と出会っていくところをお話しくださいました。

親鸞聖人は比叡山を下りて民衆が2~3日籠もるところである六角堂で100日おこもりになる決意をなされたとお教えくださいました。

また、念仏にも仏になるためのお念仏と仏からいただいていると気付いて称える念仏があるのだと教えてくださいました。

報恩講に向けての仏具磨きをしていただきました

15日日曜日の午前中、雨の降る中尼講の方々に来て頂いて報恩講に向けての仏具磨きをしていただきました。とっても綺麗になりました。感謝です。

373_報恩講案内号

報恩講厳修
十月三十一日午後一時三十分より十一月一日午後三時まで
報恩講とは私たちの宗祖親鸞聖人のご命日を縁として勤められる年間行事の中で一番大切な仏事です。いわば親鸞聖人のご法事とも言えるものです。
報恩講では皆さんのお念仏の声をそして親鸞聖人のみ教えを共に聞いていきましょう

日  程
10月31日(火)   午後1時30分より 午後のおつとめ
11月  1 日(水) 午前9時30分より 午前のおつとめ
午後1時30分より まとめのおつとめ
勤めの後に毎回お説教があります。
お話しくださるのは 松井 勇さん(南砺市)です。

御文をいただく 其の六十七五帳目第九通③_雑行を棄てて本願に帰す
 これは親鸞聖人の信仰告白ともいえる文章です。この言葉を聞くと思い出す言葉があります。それは九月までやっていたNHKの連続テレビ小説「らんまん」で松坂慶子さんが演じた槙野タキさんが主人公の万太郎に発した言葉「何かを得るということは何かをすてるという事じゃ」という言葉です。
 親鸞聖人は本願に帰すと自分の生き方をあきらかにされるわけです。その信仰告白の言葉に伴って雑行を棄ててという言葉を付け加えられているのです。雑行というのは阿弥陀如来様が建てられた本願に基づかない行いです。本願に帰すということと雑行を棄てるということが同時性をもって語られています。一つの事を二つの側面から表していると言ってもよいのかもしれません。本願に帰するということは雑行を棄てるということなのだという意味も含んでいるのでしょう。
 これもあれも選び取っていくというのは選びではなく、何かを選び取っていくということは何かと決別していくということなのではないでしょうか。今の私たちの生活はこれとは違って、あれもこれもと抱え込んでいって結局、身動きのとれないようになっていってしまう生き方をしていることもこの言葉から教えられているのではないでしょうか。


372_ 初めまして春じゃのぅ、同じ春は二度とない


 私はいわゆるテレビっ子です。家にいるといつもテレビを見ています。見ていなくてもテレビがついています。テレビとともに生きていると言っても過言ではないかもしれません。(笑)テレビを見ていると、はっとさせられることがあります。その一つが今月の言葉としてご紹介している言葉、「初めての春じゃ、同じ春は二度とない」という言葉です。これはNHKの連続テレビ小説「らんまん」聞き取った言葉です。この言葉を受けて「初めての報恩講です。同じ報恩講は二度とない。」このような言葉を発したくなっています。今報恩講に向けて少しずつ準備をしているからでしょうか。
 皆さんはこの世に生をうけ何回目の秋を迎えられているでしょうか。その中で同じ秋はなかったはずです。毎年何かが違っていたのではないでしょうか。そういう意味で同じ秋はないのです。また秋とはこういうものだという思いで秋を過ごしてしまうと、いつもと違う秋と出会うことが難しくなるかも知れませんね。何事も初事として出会っていく事が大事だといえることでしょう。
 さて当寺の報恩講も本年も勤めさせていただきます。皆様にとっては何回目の報恩講の案内でしょうか。報恩講も毎年勤めさせていただいていますが、今まで同じものはありません。報恩講の中でいろんな出会いや気づきがあります。毎年同じ内容ですが、私の受け取りは毎年違うものがあります。
 皆さん方も是非当寺の報恩講にお参りください。その中で懐かしさに出会ったり、新たな気づきをもたらしてくださるかもしれません。初事としてお参りください。おまちいたしております。

彼岸会を勤めさせていただきました

9月23日、ちょうど秋分の日に当寺秋季彼岸会を勤めさせていただきました。天気予報では曇りとなっていましたが、時折雨の降る中、皆さんにお参りいただき勤めさせていただくことができました。ありがとうございます。お話しは水橋の石川正穂さん、紙芝居を演じてもらいながら供養についてお話しくださいました。南無阿弥陀仏とお念仏を称えていくことが私たちができる中で一番大切な供養だとわたしは聞き取りました。

370_一切の聖教といふもただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり


一切の聖教といふもただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり

 仏教でお経といわれるものはお釈迦さまが説かれたお説教が書きとどめられているものを指します。厳密に言うならば正信偈は親鸞聖人がお作りになられたうたですのでお経とは言いません。でも、諸先輩方のお書きになられたものも含めてお経と言ってきた文化もたしかにあったので一概にそれは間違いであるともいえません。少なくても仏教の肝要を記されているものをお経と言ってきたのでしょう。
 この世の中に異訳本を含めると八万四千のお経があるといわれています。私はそれをすべて見たこともありませんし、数えたこともありません。ただいえることはお経は誰かのためにあるのではなく、すべて私のために(皆様方一人ひとりにために)あるのです。私一人のためにお説きくださったのがお釈迦ですし、未来永劫の人々にお釈迦様の教えが伝わるよう願われて多くの方々がお経を編纂なされたり、翻訳されてきたのです。いわばお経とは私たちが成仏するための、言い換えれば仏となるための指南書です。お経にどんな力があるのか私にはわかりかねますが、不可思議な力を求めるためにお経を使うというより、本来的な意味で利用する方がお釈迦様はお喜びになられるのではないかと私は思っています。
 蓮如上人はそのお経について「一切の聖教といふも
ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり」と御文の中にお書きになられています。お経というのは南無阿弥陀仏という六字の名号を信じさせるためにあるのだと、きっぱりおっしゃっておられます。飛躍して訳しますとお釈迦さまが一番お説きになられたかったことは念仏を信じ称えさせるためにあるのだと。やっぱりここまで言うと言い過ぎですね。少なくても私たち念仏を称えるもののお経との付き合い方を示されているのだと思います。お経というのは誰かのために、先祖のために読むものではなくて私のために読んでいかなければならないものなのでしょう。なぜ南無阿弥陀仏の救いを阿弥陀如来がわざわざお作りになられたのか。お経を鏡として我が身を知り、阿弥陀如来の大悲のいわれに頷いていくことが大切なことなのではないでしょうか。

369_多様性が担保されたということは正解が一つじゃなくなったということ

多様性が担保されたということは正解が一つじゃなくなったということ
 「多様性」ということをよく聞くようになりずいぶんとたっているような気がする。25年前、東本願寺で蓮如上人五百回御遠忌法要の教化テーマが「バラバラでいっしょ~差異を認める世界の発見~」であったと記憶している。これも多様性を認めていこうという方向のものだろう。
 今、外を歩いていてもいろんな言語が聞こえてくる。中国語っぽいもの、タイ語っぽいもの、もしかしたらベトナム語っていうのも。こんな田舎までいろんな国がおられるのが事実。もう多様性の社会になっていると言ってもいいのかもしれない。でも私たちの生活は何も変わらないし、価値観も変わらない。そして自分と異なるものに対してなんとなく拒否反応を起こしてしまっている。日本語でない言語を聞くとなんとなくびっくりする。何を言っているのかわからないということもあるのだろうけど。
 自分と違う言語の人がいるということは違う文化を持っている人がいるということ。いろんな価値観を持った人たちが一緒に暮らしているということ。いろんな価値観を持った人がいるということはいろんな正解を持った人がいるということであると思う。それを認めていくことが大事あり、そしてこれが一番難しい。
 日本人というひとくくりの中でもみんな同じ価値観を持っているのだろうか。いやそうではなくて一人ひとりの人生の中でそれぞれいろんな経験もしてきている。そのなかでそれぞれの価値観を持ち、それぞれの正解を持って生きているのではないだろうか。
 そしてそのところで何度かみんな苦しんでいるはずだ。皆さんも誰も自分を認めてくれないと嘆いたことはなかっただろうか。
 いろんな正解がこの世にあるのだと認識することから多様性社会を私たちが作っていく事ができるのだろうし、一人ひとりを認め尊敬することができるようになっていくのではなかろうか。

祠堂経会を勤めさせていただきました

6月18日より19日まで暑い中沢山のお参りをいただき当寺の祠堂経会を勤めさせていただきました。また沢山の懇志金をお運びいただきありがとうございました。大切に使わせていただきます。
講師として富山教区の駐在教導に無理を言ってご出講いただきました。心より御礼申し上げます。
二日間に私本当の幸せということについてお話しいただきました。

368_祠堂経会案内号_御文をいただく 其の六十七五帳目第九通③


御文をいただく 其の六十七 五帳目第九通③

 親鸞聖人がお作りになられた正信偈は「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という言葉から始まります。実はどちらも南無阿弥陀仏ということです。親鸞聖人なりに言い直されたことばといえると思います。南無という言葉と帰命という言葉は同じ意味です。南無というのは元々むかしのインドの言葉です。そのインドの言葉の発音を漢字で書き表したのが南無となります。また意味から漢字で表したのが帰命になります。どちらも元々古いインドの言葉ナマスから来ているのです。
 余談ですが、今インドやネパールで交わらされる挨拶の言葉はナマステと言うそうです。あったときだけではなく別れの時も。ナマステはナマスとテに分解できるそうです。ナマスは敬礼・服従するという意味で、テは「あなたに」の意味です。意味からするとあなたを尊敬しますとなります。こういう意味の言葉が挨拶の言葉として使われていることに驚きというか頭がさがる思いがします。
 ナマステのところで書きましたようにナマスとは敬礼・従服を意味する言葉です。帰命という言葉も漢字を見ただけではなかなか意味のわかる言葉ではありませんが、南無と同じ、頭が下がります、という意味になります。ですから南無阿弥陀仏というのは阿弥陀仏に帰依するという意味があるのです。   (つづく)