408_御文をいただく 其の七十三五帳目第十通④


408_御文をいただく 其の七十三五帳目第十通④

弥陀の約束を杖として
歩む人生 「一念発起入正定聚」この言葉を紐解くと、阿弥陀仏の救いを信じたその一瞬(一念)に、間違いなく仏になれる仲間(正定聚)に加わる、という意味になります。かつての仏教では、厳しい修行を終えて死んだ後にようやく救われるという考えが一般的でしたが、親鸞聖人は、信じたその時に人生のゴールが約束されると説かれました。
 しかし、私たちは現実にいま仏になったわけではありません。煩悩を抱えたまま、迷いの中を生きる身です。だからこそ、救いを「完了したもの」として言い切るのではなく、阿弥陀仏から「必ず救う、決して見捨てない」という約束を今ここで受け取ったのだと捉えてみてください。
 それは、人生という険しい道のりを歩むための「折れない杖」を授かるようなものです。たとえ足元が火の河、水の河に挟まれた、危うい「白道」であったとしても、その杖さえあれば私たちは独りではありません。
 私たちは、自分の力だけで人生を切り拓こうとするとき、どうしても行き詰まりや孤独を感じてしまいます。しかし、帰るべき浄土という目的地が約束されているという事実は、私たちの生き方に決定的な安心感をもたらします。出口の見えない暗闇をさまよい続ける不安から解放され、約束された未来を信じて今を生きる勇気が湧いてくるのです。
 弥陀に救われるという約束を杖として、この世を強く歩んでゆける。
 その杖があるからこそ、私たちはたとえ転んでもまた立ち上がり、一度きりの人生を自分の足で踏みしめていくことができるのです。この約束を胸に、今日という一日を力強く歩ませていただきましょう。

どうして無力だと思うのかあるよ ひとりにはひとりぶん力が

私たちは時に、自分の小ささに立ちすくみ「自分は無力だ」と嘆いてしまうことがあります。大きな時代の流れや、思い通りにならない現実を前に、自らの力の限界を感じてしまうからでしょう。けれど浄土真宗の教えが照らすのは、その「無力さ」という自覚を抱えたままの私たちが、実は大きな慈悲の中にまるごと包まれ、生かされているという真実です。
 自分の計らい(自力)だけで全てを成し遂げようと力めば、いつか必ず壁に突き当たり、心は折れてしまいます。しかし、「ひとりには、ひとりぶんの力が備わっている」という言葉は、阿弥陀様から「あなたにしかできない、あなたに相応しい歩みが必ずあるのだよ」と呼びかけられている、温かな励ましに他なりません。
 日々の食事を丁寧に整え、場を清め、誰かの言葉に静かに耳を傾ける。そんな「ひとりぶん」のささやかな営みの中にこそ、目に見えない大きな働き(他力)が満ち溢れています。その一歩は、たとえ小さく見えても、広大な他力の海に支えられた、決して揺らぐことのない尊い一歩なのです。
 「自分一人で頑張らねば」という気負いを手放し、大きな慈悲に身を委ねたとき、不思議と「もう一歩、歩んでみよう」という静かな力が内側から湧いてくるものです。今日もまた、与えられた「ひとりぶん」の命を、光に照らされながら、精一杯に、そして安らかに。