406_御文をいただく 其の七十一五帳目第十通②


御文をいただく 其の七十一五帳目第十通②

仏のかたより往生は治定せしめたもう。この気づきが浄土真宗では大事なものなのだなと最近は思わせてもらってます。念仏に基づかないことを一生懸命止めようとしても止められず、それ以前に何が雑行なのかもさっぱり見当がつかなくて途方にくれていても、そんなことに何にも関心を持たずただただその日暮らしをしていようが、仏、すなわち阿弥陀如来様は往生させようさせようとその人に合ったはたらきをしてくださっているのです。ただそのおはたらきがこの上なくありがたいと思えるのは二心なく一心に弥陀如来にたすけてと深く願うときなのでしょう。弥陀如来が私を救ってくださっている、救おうと今してくださっていると言う字覺が生まれたときに初めて弥陀にお任せしようという絶対的な信頼、すなわち帰命する心がどこからともなくわいてくることでしょう。

煩悩の心を客人とし念仏の心を主人とすべし

この言葉は親鸞聖人のお師匠様、法然上人のお言葉だそうです。実は似たような言葉を以前聞いたことがあります。それは蓮如上人の「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」という言葉です。法然上人の方が古い方ですので、たぶん蓮如上人が法然の上人の言葉を受けて書かれたのでしょう。主人ですから使えるべき存在、一番大事にしないといけない存在が念仏の心や仏法と言われるものなのでしょう。そして客人は無視して良いというわけではなく、ある程度のおっ気合いをしていかないといけないけど、客人と主人を比べれば渡欧前主人のいうことを聞かないといけない存在なのでしょうね。それが煩悩の心や世間の常識なのでしょう。何を一番にしないとけないか考えながら生きていくことが大事なのでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です