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戦争を知ってるやつが居るうちなら安心だ戦争を知らない世代が日本の中核になった時が怖い_田中角栄
愚かさを知らされる歩み

 「戦争を知る世代」が伝えてきたのは、単なる悲劇の記録ではありません。それは、極限状態において人間がどれほど残酷になれるかという「自らの愚かさ」の告白でもありました。その生々しい痛みの記憶が、かろうじて私たちの暴走を止める「重石」となっていたのです。
 しかし、浄土真宗が説く人間の姿は「煩悩具足」――すなわち、条件さえ整えば、いつどこで牙を剥くかわからない危うさを抱えた存在です。戦争を知らない世代が社会の中核を担うとき、最も恐ろしいのは、歴史を知識としてのみ受け取り、私たちが「自分たちは分別のつく、正しい人間だ」と自惚れてしまうことではないでしょうか。「自分はあんな過ちは犯さない」という過信こそが、実は最も戦争に近い心境なのかもしれません。
 自らの闇に無自覚な「正義」ほど、容易に他者を排除し、争いの火種となるものはありません。親鸞聖人は「さるべき業縁の催せば、いかなるふるまいもすべし」と説かれ、縁さえあれば何をしでかすか分からない自らの身の事実を深く見つめられました。
 私たちは今こそ、先人の痛みを「終わったこと」として完結させるのではなく、今ここにある自らの「愚かさ」を照らし出す光として受け止め直す必要があります。「まだだ、自分は分かっていない」と自らの危うさを仏様の眼差しに知らされ、その中で「申し訳ない、ありがたい」と頭を下げる。この終わりなき歩みのなかにこそ、他者と共に生きる真の平和への道が拓かれているのです。

 

御文をいただく 其の七十四五帖目第十通⑤

お願い事から感謝のお念仏へ

 私たちは日常、つい「病気が治りますように」などと、願い事を叶えてもらうためにお参りしてしまいがちです。
 蓮如上人が『御文』五帖目第十通 で示されたお念仏の本質は、そのような「お願い事のための念仏」ではなく、阿弥陀さまへの感謝を表す「御恩報尽(の念仏」です。
 だからといって、お願い事をすること自体がいけないわけではありません。日々の不安や切実な願いを抱えて手を合わせることは、仏さまと縁を結ぶ大切な「入り口」となります。
 大切なのは、その願いをきっかけとして、私たちが願うよりも先に「必ずあなたを救う」と約束してくださっている阿弥陀さまの大いなる慈悲に気づかせていただくことです。
 「どうぞ救ってください」という願いの入り口から、一歩進んで「そのままのあなたを救うよ、と届いてくださっていたのだ」という感謝のお念仏に出会っていく。そんな、願いから感謝へと深まるお念仏の喜びを、ともに歩ませていただきましょう。