2024年報恩講初日勤まりました

報恩講の初日が勤まりました。

今年は御絵伝を手がかりにお話をしていただいてます。御絵伝が近くで見られ、その説明もあって非常に喜んでおられたように感じてます。物語や絵で伝えることの大切さを改めて知らさせてもらいました。

報恩講に向けて仏具を磨いてもらいました

20日の午前中、東老田尼講の方を中心に報恩講開催に向けて本堂の仏具を磨いていただきました。これでなんとか報恩講をお迎えすることができます。ありがとうございました。

お磨きが終わったあと、皆さんで阿弥陀さまにお磨きが終わった報告を兼ねて正信偈のお勤めをいたしました。そのあともお茶を飲んでいってもらったのですが、笑い声や話し声が響き渡る本堂でした。つたない住職としては本当にうれしくなる1日でした。

報恩講をお迎えさせていただきます

報恩講厳修
十月三十一日午後一時三十分より十一月一日午後三時まで
報恩講とは私たちの宗祖親鸞聖人のお亡くなりになられた日を縁として勤められる年間行事の中で一番大切なものです
皆様と一緒にお念仏の声をそして親鸞聖人のみ教えを
聞いていきたいと思っています
日  程
10月31日(木)   午後1時30分より 午後のおつとめ
11月  1 日(金) 午前9時30分より 午前のおつとめ
午後1時30分より まとめのおつとめ
お勤めの後に毎回お説教があります
お話しくださるのはいつものように 松井 勇さん(南砺市)です
今年は本願寺に伝わる御伝鈔(親鸞聖人のご生涯を伝える絵巻物)をもとにお話をしていだけるようにお願いしてあります
※例年のごとく11月1日にオトキ(昼食)を用意しています

Q.報恩講って何をするの?A.報恩講では宗祖親鸞聖人がお作りになられたうた、正信偈と和讃を僧侶が中心となって節をつけて読みます。その後親鸞聖人のお教えをわかりやすく説明されるお説教を聞きます。それが2日間に渡り三座(3回)設けます。全部お参りしなければならないわけではなく、一座だけのお参りでもかまいません。

皆様ご協力ください

能登半島支援 茶碗一杯からの助け合い運動 開催中!!

1月1日の能登半島地震がおこり、そしてまた先日9月21日の豪雨災害が起きてしまいました。テレビを見ていても本当にやりきれない気持ちでいっぱいになります。東日本大震災の時にならい当寺では有縁の方々のご協力をいただき、被災地に皆様のお心と一緒にお米を送りたいと思います。当寺玄関に米を入れる箱を用意します、また報恩講、御正忌の時には本堂にも箱を用意しますので袋にお米を茶碗一杯以上を入れていただきお寺までお持ちいただけたら幸いです。またお参りの折にお渡しくださっても結構です。
「心配しているよ」という気持ちをお米に込めて能登半島に届けませんか?
責任を持ってお米をのとにとどけさせていtだきます。
皆様よろしければご協力ください。

今月のことば_2024年09月

平和への誓い
目を閉じて想像してください。
緑豊かで美しいまち。人でにぎわう商店街。まちにあふれるたくさんの笑顔。
79年前の広島には、今と変わらない色鮮やかな日常がありました。
昭和20年(1945年) 8 月 6 日 午前 8 時15分。
「ドーン!」という鼓膜が破れるほどの大きな音。
立ち昇る黒味がかった朱色の雲。
人も草木も焼かれ、助けを求める声と絶望の涙で、まちは埋め尽くされました。
ある被爆者は言います。あの時の広島は「地獄」だったと。
原子爆弾は、色鮮やかな日常を奪い、広島を灰色の世界へと変えてしまったのです。
被爆者である私の曾祖母は、当時の様子を語ろうとはしませんでした。
言葉にすることさえつらく悲しい記憶は、79年経った今でも多くの被爆者を苦しめ続けています。
今もなお、世界では戦争が続いています。
79年前と同じように、生きたくても生きることができなかった人たち、
明日を共に過ごすはずだった人を失った人たちが、この世界のどこかにいるのです。
本当にこのままでよいのでしょうか。
願うだけでは、平和はおとずれません。
色鮮やかな日常を守り、平和をつくっていくのは私たちです。
一人一人が相手の話をよく聞くこと。
「違い」を「良さ」と捉え、自分の考えを見直すこと。
仲間と協力し、一つのことを成し遂げること。
私たちにもできる平和への一歩です。
さあ、ヒロシマを共に学び、感じましょう。
平和記念資料館を見学し、被爆者の言葉に触れてください。
そして、家族や友達と平和の尊さや命の重みについて語り合いましょう。
世界を変える平和への一歩を今、踏み出します。
令和 6 年(2024年) 8 月 6 日
こども代表
広島市立園小学校 6 年  加藤 晶
広島市立八幡東小学校 6 年 石丸 優斗

380 御文をいただく 其の六十八五帳目第九通④

御文をいただく 其の六十八五帳目第九通④_たすけましますという事が本当にわからない

 浄土真宗の教えとは阿弥陀如来様のお救いを信じ南無阿弥陀仏と念仏申す生活をする教えですが、だけど、この私を阿弥陀如来様がたすけてくださいますよといわれてもなかなかピンとことないのも本当のところなのではないでしょうか。そう感じているのは私一人だけなのでしょうか。はてさて…
 阿弥陀如来様の救いがピンとこないということは自分が阿弥陀如来様に救ってもらわなくてはならない身であるという事に頷けていないからなのでしょうね。 
 仏様の救い以前に誰かのお世話になるという事があまり好きでないし、自分ひとりでなんとかやっていけると思ってしまっている自分がいるからなのでしょうね。お金さえあれば何でも買えますし、何でも済んでしまうのがこの世の中ですもんね。誰かに助けてもらわないとやっていけないなんてあんまり感じられないかもしれません。
 念仏を大切にされてきた先輩方は「おかげさま」と思いながら生活をしてそしてそのなかでお念仏を称えてこられたように思います。また、自分を信じて、自分の価値観だけを信じて生きていっても本当に幸せになれるんでしょうか。私はなんとなくですが、そうではないような気がしています。何か大きな誤解をして生活をしているのが私たちなのかも知れません。
 阿弥陀如来様が私を救ってくださるのだと狂信的に信じていく前に阿弥陀如来様の救いがなぜ今まで残ってきたのかという事を私ごととして、私を見つめ直す事をとおして訪ねていく事も大切なのではないでしょうか。

仏教はわかる教えではありませんなるほどその通りとうなづく教えです

 親鸞聖人は主著である顕真実教行証文類の中で善導大師のお言葉を引用されて仏教の学び方についてお示しくださっています。一つには「解学」これはわかるようになることを目的とした学び方です。経典などを読んだり理解する学びであります。いわば私たちが思う勉強です。そしてもう一つ、仏教の学びとして「行学」というあり方です。日々の生活の中で仏教を確かめ自分の生きる道をあきらかにしていく学びのことです。この二つの学びはこれがよくてこれはだめだというのでは決してありません。知識を身につける学び解学も大切です。ただこの学びで終わってしまうことがもったいないことなのです。次のステップがあるというか、解学と共に行学をしていくことが大事なのです。解学で終わらせてしまうことがもったいないことなのです。
 そもそも仏教というのはお釈迦様が私たちにされたお説教が基です。その教えに生きていくことが仏教です。他人ごととしてこんな生き方があるんだと聞いていくのではなく、私ごととして自分の生き方として学んでいくことが肝要なことでしょう。言い換えればお釈迦様は何でこんなことをおっしゃっておられたんだろうかということを私の人生を振り返りながら確かめて行く事が大事な仏教の学びなのでしょう。