
明日ありと思う心の仇桜
明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは
親鸞聖人が九歳で得度される際に詠まれたと伝えられる歌です。
「明日がある」と思っていても、その明日が必ず訪れるとは限りません。夜のうちに嵐が吹けば、美しく咲いていた桜も散ってしまいます。だからこそ、この歌は、人生の無常を静かに私たちへ語りかけています。
昨年、私の四男は大学一年生になりました。
高校時代にともに部活動に励んだ後輩が、突然の交通事故で亡くなりました。若く、元気だった人の死は、「人はいつか亡くなる」という知識では受け止めきれない現実だったことでしょう。
その後、大学の授業であらためてこの歌に出会い、「明日ありと思う心の仇桜」という言葉が胸に深く響いたようです。
友の死を通して、人のいのちは限りあるものなのだということを、あらためて受け止めたのでしょう。
そして、それだけではなく、「では、自分のいのちはどうなのだろう」と、自分自身のこととして考えたのではないかと思います。
仏教では、無常とは「人はいつか死ぬ」という知識を教えているのではありません。
限りあるいのちを生きているのは、この私であったと気づかされることです。
「明日」は誰にも約束されていません。
だからこそ、今日出会えた人を大切にし、今日いただいているご縁を大切にし、そして今日、お念仏に遇わせていただいていることを尊いこととして味わいたいものです。
親鸞聖人のこの歌は、八百年の時を超えた今も、「限りあるいのちを生きているのは、この私であった」と、私たち一人ひとりに静かに問いかけ続けているように思います。
