
今月のことば_2025年12月
親のの心配知らぬ顔の息子たち 思い返せば私もそうやった
同じように弥陀のお心しらずの私たち
子どもが小さい頃は、親というものは何かと心配をします。
ちゃんと食べているだろうか。元気にしているだろうか。困ってはいないだろうか。
けれど、子どもはそんな親の心配など知らぬ顔です。心配されていることにも気づかず、自分の毎日を精一杯生きています。
ところが、その心配は子どもが大きくなれば終わるものではありません。
就職をすれば仕事のことを心配し、結婚すれば家庭のことを心配する。年を重ねれば健康を気遣い、自分が年老いてもなお、子どものことを案じています。
親というものは、子どもがいくつになっても心配し続ける生きものなのかもしれません。
けれど、思い返せば私もそうでした。
親がどれほど私を案じ、願いをかけてくれていたのか、その頃の私は少しも分かっていませんでした。
仏さまのお心も、それと少し似ているように思います。
阿弥陀さまは、私たちが苦しまないように、迷い続けないようにと、絶えず願いをかけてくださっています。
けれど私は、その願いに気づかず、自分の考えだけで生きています。
困ったときだけ仏さまを思い出し、都合がよければ忘れてしまう。
そんな私でありながら、阿弥陀さまは決して見放すことなく、今日も変わらず願い続けてくださっています。
子どもは親の心を知らず、私は仏さまのお心を知らず。
聞法とは、「これほどまでに願われていた私だったのか」と、少しずつ気づかされていく歩みなのだと思います。
