お盆について

「お盆」と聞くと、何を思い浮かべるでしょうか。

故郷へ帰ること、お墓参りをすること、家族や親戚が集まること。迎え火を焚いて亡き人を迎え、送り火を焚いて送る。地域によってさまざまな習慣がありますが、日本では昔から、お盆は亡き人を身近に感じる大切な行事として受け継がれてきました。

ところで、お盆にはこんな説話があります。

お釈迦さまのお弟子の一人、目連尊者は、亡くなった母がどうしているのかと神通力を使って探しました。すると母は、餓鬼の世界で苦しんでいました。

驚いた目連尊者は、母を救おうと食べ物を差し出します。しかし、母はそれを食べることができません。自分の力ではどうすることもできず、目連尊者はお釈迦さまのもとを訪ね、どうすれば母を救うことができるのかと教えを請います。そして、お釈迦さまの教えに従って僧たちに供養し、母は苦しみから救われたと伝えられています。

この説話から、お盆は亡き人やご先祖を供養する行事として受け止められてきました。

では、真宗の教えを聞く私たちは、お盆をどのようにいただけばよいのでしょうか。

亡き人を思い、お墓やお仏壇の前で手を合わせる。そのことは、とても大切なことです。

けれども、「亡くなった人のために、私が何かをしてあげる」というところだけで終わってしまうと、少し違うように思います。

目連尊者の説話をもう一度見てみると、母を救おうとした目連尊者自身が、お釈迦さまのもとへ行き、その教えを聞いています。

母を救おうとしていた目連尊者が、母を縁として仏さまの教えに出遇っていったのです。

そう考えると、お盆の見え方も少し変わってきます。

私たちは亡き人を思って手を合わせます。

「あの人は、どうしているだろう」
「あの人に、こんなことをしてあげたい」

そう思って手を合わせている私が、亡き人を縁として、いつの間にか自分自身の生き方を問われていく。

私は今、どのように生きているのだろう。
私は何を大切にして生きているのだろう。

亡き人を思っていたはずの私が、亡き人から我が身を照らされていくのです。

真宗では、亡き人が年に一度だけ私たちのところへ帰ってこられるとは考えません。亡き人は阿弥陀如来さまのお浄土に生まれ、仏さまとなって、いつでも私たちにはたらきかけてくださっているといただきます。

だからといって、昔から大切にされてきたお盆の営みを否定する必要はないでしょう。

家族が集まる。
お墓をきれいにする。
亡き人を思い出す。
そして、手を合わせる。

その一つひとつをご縁として、亡き人に遇い、仏さまの教えに遇い、今を生きている我が身をたずねてみる。

亡き人を「迎える」お盆から、亡き人に「遇う」お盆へ。

お盆を、そんな仏法に遇うご縁として大切にしていきたいものです。

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