「ぼた餅」と「おはぎ」、何が違うのでしょう。
どちらもお彼岸にいただく食べ物で、中身は同じです。もち米をあんこで包んだものを、春には「ぼた餅」、秋には「おはぎ」と呼びます。
春のお彼岸の頃に咲く牡丹の花から「牡丹餅(ぼたもち)」、秋のお彼岸の頃に咲く萩の花から「お萩(おはぎ)」と呼ばれるようになった――という説があります。
春には牡丹、秋には萩。食べ物の名前にも、昔の人が感じていた季節のお彼岸が残っているようです。
では、そもそもなぜ春と秋に「お彼岸」があるのでしょう。
春分・秋分の日は、昼と夜の長さがほぼ同じになります。そして太陽は真東から昇り、真西へと沈んでいきます。
朝、東から昇ってくる太陽を見れば「こちらへやってくる」姿があり、夕方、西へ沈んでいく太陽を見れば「向こうへ行く」姿があります。
そう考えてみると、こんな問いが浮かんできます。
私は、どこからやってきたのだろう。
そして、どこへ行こうとしているのだろう。
「彼岸」とは「彼(か)の岸」と書きます。それに対して、私たちが生きているこちら側を「此岸(しがん)」といいます。
彼岸とは、単に亡くなった人たちがいる「あの世」という意味ではありません。迷いや苦しみを抱えて生きている私たちに対して、阿弥陀如来さまの願いに満ちたお浄土を、「彼岸」とも表してきました。
ですから、お彼岸は「先祖のお墓参りをする期間」というだけではありません。
亡き人を訪ね、お墓やお仏壇の前で手を合わせる。私たちは亡き人を偲んで手を合わせているつもりですが、その亡き人を縁として、今を生きている私自身の姿を見つめる時間にもなります。
私はどこからやってきたのか。
私は何に支えられて生きているのか。
そして、私はどこへ行こうとしているのか。
毎日の生活に追われていると、そんなことを考えることもなく過ぎていきます。
春には牡丹が咲き、秋には萩が咲く。そして、ぼた餅やおはぎをいただく。
そんな季節の営みを楽しみながら、ちょっと立ち止まって、亡き人に遇い、仏さまの教えに遇い、自分自身の歩みをたずねてみる。
お彼岸とは、そんなご縁なのではないでしょうか。
