「浄土に往生したいですか」と聞かれて、素直に「はい」と答えられる人は、どれくらいいるでしょうか。
往生とは、浄土に生まれることです。しかし、死後の世界は私たちには分かりません。分からないものへの不安もあります。だから、浄土と聞いても、なかなか「往きたいところ」にはならないのでしょう。
けれども私たちは、日々の暮らしの中で、「このままでいいのだろうか」と感じることがあります。
ところが、そこで私たちがまず考えるのは、「あの人が変われば」「世の中が変われば」ということではないでしょうか。いけないことの原因を、自分以外のところに見つけようとします。
けれども、私が批判している「あの人」と私は、本当にまったく違う人間なのでしょうか。
人を傷つける心も、自分を守るために誰かを排除する心も、自分だけは正しいと思う心も、私の中にもあります。置かれた状況が違えば、私もまた同じことをする身であるかもしれません。
変わらなければならない社会の、その原因は私の中にもあるのです。
そう気づかされたとき、「変わらなければならないのは、あの人だけではない。私も変わらなければならない」という問いが生まれてきます。
「私が変わる」。そこに成仏の始まりがあるのではないでしょうか。
もちろん、そう気づいたからといって、簡単に変わることのできる私ではありません。だからこそ、この私が浄土に生まれ、仏となるという「往生」が、私自身の問題となってきます。
往生とは、死んでから突然始まる話ではありません。
「変わらなければならないのは、私ではないか」
そう問われるところから、私の浄土往生は始まるのだと思います。
