
思い通りになることが幸せならば、誰も決して幸せになれない
「思い通りになれば幸せなのに。」
私たちは、そんな思いを何度も抱きます。
病気が治れば。仕事がうまくいけば。人間関係が思い通りになれば。家族が自分の願うようになれば。そうなれば幸せになれる、と。
けれど、少し立ち止まって考えてみると、人生で思い通りになることは、いったいどれほどあるのでしょうか。
天気は思い通りになりません。年齢も止められません。病気や別れも避けられません。相手の心はもちろん、自分の心さえ思い通りにならないことがあります。
さらに考えてみると、「思い通り」が本当に幸せなのかという疑問も湧いてきます。
もし世の中の誰もが、自分の思い通りに生きようとしたらどうなるでしょう。
私はこうしたい。いや、私はそうは思わない。自分の願いを通そうとする人ばかりになれば、互いの思いはぶつかり合います。一人の「思い通り」は、もう一人の「思い通り」を押しのけることにもなります。
戦争も争いも、家庭のいさかいも、職場の対立も、その多くは「自分の思いを通したい」という心が根底にあるのではないでしょうか。
私たちは「思い通りにならないこと」が苦しみだと思っています。しかし実は、「思い通りにしたい」という心そのものが、苦しみや争いを生み出していることも少なくありません。
私もそうです。
思い通りにならない出来事があるたびに、「なぜだろう」「どうして自分だけ」と考えてしまいます。しかし、振り返ってみると、思い通りにならなかったからこそ出会えた人がいました。思い通りにならなかったからこそ気づかされたことがありました。そして、自分の力ではどうにもならないと知ったとき、初めて人の支えや仏さまの願いに目を向けることができたように思います。
浄土真宗では、阿弥陀さまは「思い通りの人生」を約束されたのではありません。
思い通りにならない私、迷い続ける私、そのままを見捨てないという願いをかけてくださっています。
だから、幸せとは、何もかもが自分の願いどおりになることではありません。
思い通りにならない現実の中で、それでも一人ではないと気づかされること。その安心の中で生きていけることではないでしょうか。
思い通りにならない今日だからこそ、仏さまの願いに耳を澄ませてみたいと思います。
