225 御文を頂く23 五帖目第四通②罪の深からん輩とは

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 このお文ではまず今という時代特に阿弥陀仏の救済にあずからなければならないものは「罪のふかからん輩」というように定義されています。このように呼びかけられていると私には関係ないと理解するのが現代を生きるものからすれば普通かもしれません。私たちが罪と言えば国が定める法律など社会のルールに違反することと理解してしまいます。ですから私は警察に逮捕されたこともないですし、大きな犯罪も犯したことがないので、罪深いものと言われても私には関係のないこととなってしまいがちです。しかし本当にここで呼びかけられている罪深き輩は自分には関係のないことなのでしょうか。
 ここ最近になって急に中国の大気が汚染されているというニュースが流れてきています。そしてその汚染された大気が偏西風によって私たちの住む日本に押し寄せているのだということが報道されています。そうのような報道を目にすると中国は悪い奴だ、罪深い奴らだと思ってしまうものです。また一方インターネットなどを検索すれば、中国の大気汚染は数年前から比べればあれでもだいぶよくなってきているのだとあったり、汚染された大気が日本に押し寄せてきているのは今更のことではなく、ずっと続いていたことなのだという情報も出てきます。このような情報も目にすると何か他の意図があってこういうことが声高に言われているのではと勘ぐってしまいたくなります。だからといって許される問題であるというわけでは決してなく、早急に対処しないと行けないことだと思います。
 中国の大気があそこまで汚れてしまった原因は経済至上主義、この世の中でお金を儲けることが一番大切なことなのだとか、自分が幸せになるのならば他人ははどうなってもよいのだとか思う人がたくさんいるからなのではないかと私は思うのです。ですからそういう思いを持つことが良くないことなのだと気づいていってもらうことが恒久的に中国で大気汚染がなくなりその大気が日本に来ないようにする方法なのではないかと私は考えるのです。このことを踏まえて考えるならば、この罪深い現状を熾す根本を持っているのは中国に住む人たちだけではなく、全人類みんなが持ち合わせている心とも言えるのではないでしょうか。
 いま日本では、人類史上に類を見ない大きな原発事故を起こしたくさんの放射性物質を地球上にばらまいてからまだ二年ちょっとしか経たないのに、最近景気を回復するためには原子力発電所を再起動しなくてはならないという世論が高まっているそうです。そのことは今回の原発事故で一時避難している人たちや、放射性物質におびえて生活している人たちのことの思いを無視したような考え方のように私は感じます。そのことは私たちも自分のことしか考えられない、自分たちの幸せのためならどんなことをしても良いという深い罪を持って生きていると言うことの証しといえることなのではないでしょうか。
 そういう意味で罪のふかからん輩とは今を生きる私たちを挿す言葉として私を含め人類全てのものに呼びかけられている言葉なのです。

202 雑行をすてる

202_R.jpg雑行をすてる

 私たちには念佛が届けられています。一番の宝物として私たちの先祖が私たちに伝え残してくださったものです。しかしわたしたちはそのことがわかってないことなんだと思うわけです。一番の宝物として自分たちは念佛を受け止められてないと言うことがこのことを考えるたびに思わされるわけです。
 長寿番組となったテレビ番組に骨董品の価値を鑑定するというものがあります。私は結構楽しみに見せてもらっているのですが、そのなかで、出品者は皆さん自信を持ってこれは価値のあるものだと持ち寄るのですが、しかし鑑定結果が思わぬ安い値がつくことがあります。また反対に、犬に与えるために使ってた器が思わぬ高値をつけることもあり、本当にびっくりするわけです。この番組でおもしろいところは出品者の落胆する顔や驚く顔なのではないでしょうか。でもこの姿は人ごとではないと思うのです。ものの価値をわからず生活しているのが私たち、何を大切にしていかなければならないのか全くわからず生活しているのが私たちなのではないでしょうか。
 私たちの先祖は異論なのものを私たちに残してくださいました。そしてわたしたちはいろんなものを相続しています。そのなかで何を大事にしていかなければならないのかと言うことをわからず、たいしたものでないものを大切にして本当に大切にしなければならないものを粗末にしているのが私たちなのではないでしょうか。一番の宝物にしなければならないものは言うまでもなく「念佛」なはずです。人事ではないのですが、どうでしょうか?
 私たちの宗祖親鸞聖人は「雑行を棄てて本願に帰す」を自らの生き方を表明なさっておられます。阿弥陀如来の本願よりおこった念佛を頼りにして、本願に基づかない行いを棄てて生きていきます、ということでしょう。私たちの生活は何を大事にしていかなければいけないのかはっきりしない、だから棄てていいものが変わらない、何が雑行かわからず生きているのではないでしょうか。目移り状態で何もかも大切なものにない見えてしまっている。何もかもにしがみついて生活してしまっているのが私たちの生き方なのではないでしょうか。
 私たちの先輩方が私たちになぜ念佛を残してくださったのか、阿弥陀如来様はなぜ私たちに南無阿弥陀仏というお言葉を私たちに十八番びく刺さっているのか、そのわけを尋ねていくことが何よりも大切なことだと思うのです。その歩みの中で棄てなければならないものが自ずからはっきりしてくるはずです。
常入寺やこのつどいnさま~
 時 8月11日(木)午後5時よりだいたい午後9時まで
参加費 500円
毎年のごとく
ながしそうめん・バーべーキュー
その他花火を予定しています。
皆さん友達を誘って参加あれ!
なかなか開催できなくなっていますおやこのつどいです。だけど、夏ぐらいは、ながしそうめんぐらいはしないと思い、うっぷん晴らしのごとく開催します。親子で、子ども達どうしでご参加ください、
またお手伝いいただけるボランティアスタッフも大募集中です。
7月23日より8月31日はこども月間
おまいりしてかしをらおう!
お寺のものがお参りに来たとき、
中学生以下の子ども達がいっしょにお参りをしたり、うしろで最後まで座ることができたら、お参りカードをあげるよ!
9月になったら、
お菓子の詰め合わせと交換しま~す!!

147お内仏のお世話⑪ お経様にであう

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人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。

 これはお東のお坊さんがお説教の前に唱える三帰依文の最初の部分である。
 人としてこの世の生を受けることは能く能く考える取ると愛づらしいことである。でもわたしは今人として生きている。そして人として生きることのめでたさを教えてくれる仏教に出会うということもなかなか出会いやすいものであるとは言い難い。でもわたしの目の前に仏教の歴史がやってきている。このように私たちに教えくださっている言葉である。この言葉を聞くと「なるほど」と理解できるのである。しかし、そのことに頷いて生活している人がどれだけいるだろか。わたしも悲しいことだけれども頷けずに生きている一人である。
 お経というのはお釈迦様がお説きになられた教えが収められている本をいいます。今から約二五〇〇年前インドで私たちのために教えをお説きになられました。それを未来の人々に伝え残すために教えを聞いた人たちが集い文字に書きとどめました。それがお経の始まりです。いうまでもなくはじめは昔のインドの言葉で書きとどめられましたが、中国の人々が昔のインドの言葉で書き表してある教典を中国に持ち運び、自分たちの言葉に、書き改めるという事業を何度もしました。それが日本に伝わり、そして今私たちの目の前に届いているのです。
 今私たちが目にする多くのお経は漢文で書かれています。またそれをそのまま読誦することが多いですので、お経を見ても、聞いてもなかなか言葉の意味を簡単に理解することは難しいのが現状です。しかし私達の所に経典として伝わっていることは事実です。教典として伝わってきているということは教典という本が伝わっているという意味ではありません。お釈迦さまが、仏であるお釈迦さまが私たちの止めにお説きになられた尊い教えがわたしに伝わっているということです。少なくても、お釈迦さまを仏様として敬い、そしてお釈迦様がお説きになられた言葉を尊い教えとしていただかれた方々が次の世代の人に、わたしに教えとしていただいてほしいという願いの中で、その願いの連続の中でわたしのところに教典が現れているのです。
 私たちにとっては教典というのは単なる古典文学的な本でしかあり得ないのかもしれませんが、私たちの抱えている経験や使僧、その他のわたしが大事に抱え込んでいるものを打ち破って下されるものとしてであい直していかなくてはならないのではないでしょうか。
 善導大師様のお言葉に「経教はこれ鏡にたとうるなり」という言葉があります。このお言葉のように、教典に収められている教えにであうということは鏡のようにわたしの姿を映し出してくださる唯一のものとしてであうということなのです。
 私たちにはお経というありのままの我が身を映し出して下される鏡は先祖より手渡されています。あとは私たちがその鏡を鏡として使うか使わないかという選びだけなのです。
 

146号  お内仏のお世話⑩仏様の前で座る


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お内仏のお世話⑪

仏様の前で座る

お仏壇の中で一番主役となるものはいうまでもなくご本尊である。お内仏をお飾りするにあたってなくてはならないモノはご本尊もそうだけど、お内仏の前で手を合わせる私たちだろう。
ご本尊がどれだけ尊いものであっても、どれだけ貴重な宝物であっても、そのことが尊い、宝物だって頷いている人がいないと尊い、宝物であるという意味を持たない。また次には伝わっていかない。仏様の絵像様がどれだけ掛けられていてもその絵像様を見てご本尊と戴く人がいないとご本尊ではない、仏様ではない。単なる掛け軸でしかない。その時点ではお仏壇も調度品、金箔を使った立派な家具でしかないのである。お仏壇がお仏壇であるためには、そしてご本尊がご本尊であるためには、仏様を仏様といただき、仏様の像が飾ってある物を仏壇といただける人がいて初めて仏様が仏様になり、仏壇になるのだろう。
仏様の前にただ座ればいいというものでもない。それはいうまでもなく仏様の前に座っているっていう自覚が必要だ。仏をイメージし仏様に念じる。そのためには説けとという存在は私にとってどんな存在なのかということをはっきりさせなければいけない。そのためには南無阿弥陀仏と念仏申されてきた先輩方に尋ねるしかないことだろう。そういう確かめのもと仏様の前に座るときいつの間にか手が合わされていることだろう。
以前お年を召したお方からおもしろいしつけについてお話を聞かせていただいたことがあります。それは、昔は今と違って朝御飯はどれだけおなかがすいてもすぐに朝ご飯を食べさせてもらえなかったそうです。阿弥陀如来様の前で手を合わせてこないとご飯を食べることが許されなかったそうです。またみんなで『正信偈』のお勤めが終わり、お文の「あなかしこあなかしこ」という言葉が終わらないと朝御飯は始まらなかったそうです。でもそういう厳しいしつけがあったからこそ今毎朝お仏壇の前に座らせていただけています。そういうお話を聞かせていただいたことがあります。今そういうご家庭はほとんどありませんでしょうし、そういうことをしなければならないっていうことは私は思いません。しかしその厳しいしつけの中において念仏申すひとに育ってほしいという願いが込められていたことは間違えのないことです。その願いを家族に伝えるっていうことは形は違っても私たちにはできるのではないでしょうか。
またそういうつよい願いがあって今わたしたちは念仏申す生活ができていることでしょう。
わたしたちは念仏申す人に出会い、仏というはたらきについて今からでも聞かなければいけないのではないでしょうか。仏をイメージして手を合わせるという行いを心がけていくことが今、大切なのではないでしょうか。

143号 お内仏のお世話⑨お華束(おけそく) 訂正6/1


ごぼはんだより143
お内仏のお世話? お 華 束
法要や報恩講の時はいつものお飾りに加えお華束をもります。漢字から訪ねると、花束とありますから花を重ねたものを飾るということなのでしょうが、餅や干菓子をお飾りすることが普通です。お寺や大きなお仏壇ではその餅や干菓子が花を重ねたように見えることはありますが、普通のお仏壇でお持ちなどをお飾りしても花を束ねたようには見えないのも実際です。

また最近「お華束」という言葉が一人歩きしているような感じがしてなりません。本来法要などでお華束としてお飾りしたお持ちなどのお下がりを参詣者の方々にお裾分けしていました。しかしお飾りした餅を配るのではなく、法要にお参りいただいた方々におみやげとして餅を配らなくてはならなく、その餅の名前をお華束というのだと思っておられる方々が最近多いように見受けられます。仏様にお飾りされることなくお参りなさった方々にお華束としてお配りされている現状に時代を感じるというか、本義が失われている現状を感じ取るのです。

お華束は御仏飯と同様仏教の真理をあらわす、白蓮華に見立ててお餅をお飾りすることです。そしてこれも御仏飯と同様お飾りしたものをいただくこと、食することまでが大事なお飾りなのです。

餅は日本では大切な行事のときにいただく物という意識が強いものです。白米よりも大切な主食という意識が日本に住んでこられた人々の生活の意識の中にあったようです。今はそうではないかも知れませんが、特別な食べ物という意識が強かったそうです。

そういう思いのあるお餅を白い蓮の花の花びらとしてお飾りし食するということは、仏教がお餅のように掛け替えのない尊いものとして私の元に現れていることを喜び、みほとけのみ教えに生きていくことを意味しているのではないでしょうか。

法要などに参列し、お餅をおみやげとしてちょうだいし、それをいつのまにかかびさせ、捨ててしまうことであるのならば、本当に大切な先祖の願いを踏みにじってしまうことと言えるのではないでしょうか。その事を自分にも問いつづけていかなければいけないと感じています。

モッタイナイ 勿体ない

仏法が御前にあっても喜べぬ私   モッタイナイ勿体ない

勿体ないことに気づけない自分
モッタイナイ勿体ない

ごぼはんだより139号 お内仏のお世話⑧ 御仏飯


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お内仏様には毎朝、朝のお勤めを終えたあと御仏飯をお供えし、お昼頃にお下げすることが習わしになっています。そして於東ではご飯を仏飯器に蓮をもしてもられています。お西ではつぼみの形になるようおしゃもじなどで形取り、お東は実の形になるよう盛槽という道具を使いもります。
仏さんのご飯ということは間違えのないことなのでしょうけど、お荘厳という意味も大事にしていかなければならないことでしょう。つまり仏様をお飾りするために御仏飯をお供えするという意味も大切な意義としていただいていかなければならないということです。白い白米をお飾りするということより、白い蓮の花を白米を使い形取りお飾りする。仏様のお徳を白い蓮の花として讃えることが御仏飯をお飾りする意味が大事だと考えています。
言い伝えによると、真っ白の蓮の花は毎年花を咲かせず、数十年に一度、何百年に一度しか花をつけないそうです。そのめったに見ることのできない真っ白の蓮の花は、汚くどろどろとした沼に一転して真っ白に耀き咲いているそうです。阿弥陀なるはたらきはよくよく考えればあえるはずのないものに珍しくあうことができ、またそのはたらきによって汚れきった我が身に、自分にふさわしくないと思えるぐらいの真っ白の花が咲いたような喜びを私と仏法のであいを表現されてきているのではないでしょうか。
またその白蓮華を私たち日本に住むものにとっては主食であるご飯で表現されている事も大切なメッセージが込められていることなのかも知れません。御仏飯は仏さんにお飾りして終わるというものではありません。御仏飯はずっとお飾りしておくものではなく、お昼にはお下げすることになっています。一日中お飾りしておくと特に夏などでは、臭くなりお下げしたあと食べようと思っても食べることができなくなります。ある意味食べるためにお昼にお下げするのではないでしょうか。お飾りして終わりなのではなく、仏教の象徴である白蓮華に形取った白米をいただく、私たちの主食として仏教をいただき、私たちの血と肉とする。そういうものが仏教であるという願いによってお飾りされてきたことではないのでしょうか。仏さんにあげるものが御仏飯ではなく、仏さんからいただいたものであり、それを大事にしまっておくべきものでもなく、自分の大事な食としていただいていくものなのではないでしょうか。

通信135号報恩講案内号 お内仏のお世話⑦かおり

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ご本尊(お内仏)にお参りするときには線香などを燃してお参りします。お線香にもいろいろな香りがあります。時にはむせるような香りがすることもあります。これは正直お参りをしていてよいきもちがするものではありません。
お参りをするときにお香を燃すのは、我が身を清める、そして浄土の世界を香りとして表現するという意味があります。私は浄土の世界を香りで表現するという事を大事にしていきたいと思っています。
浄土の香りについて阿弥陀経には微妙香潔と記されています。浄土の香りは潔く、ほのかな香りだとお釈迦様は説かれています。潔い香りというイメージは私にはなかなかわいてきません。辞書(大辞林)によりますと、いさぎよいとは(1)卑怯な点や未練がましいところがなく立派である。悪びれない。(2)汚れがない。清浄だ。という意味があるそうです。私にはそういう臭いをかいたことが経験としてないので正直なかなかイメージがわいてきませんが…。
そしてそのいさぎよい香りは微妙だそうです。俺が俺がと自己主張する香りではなく、臭覚をとぎすましたときにやっと見つけることができる香りだそうです。他の香りがわからなくなるようなきついにおいでもなく、香りが混じり合っても不愉快になることがない、そういう香りが、上から流れてくる香りだということではないでしょうか。
私達にんげんの生き方とは全く違う香りなのでしょう。そして私達の生き方の不浄さを知らしめてくださるはたらきも浄土の香りには具わっているのではないでしょうか。

128 お内仏のお世話⑥あかり

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 ご本尊にお参りをするときには輪灯などの明かりをつけます。また、ご命日の日などのお勤めをするときには蝋燭も灯します。これはご本尊が見やすくするためです。以前までは油皿に油をはり、灯芯に火をつけていましたが、今ほとんどのお宅では電球に取って代わっています。また蝋燭も火事を恐れられ電球にされるお宅もありますし、ほとんどが和蝋燭ではなく洋蝋燭になっています。私は灯芯に点火して灯すのも、和蝋燭をとぼすのも個人的には好きです。その光を見つめていると味わい深いものです。
 蝋燭や輪灯の灯は本尊を照らすためのものなのですが、でももうひとつ照らしているものがあります。それは本尊の反対が側のものです。といっても自分が振り向いてこれかなって思うものではたぶん違うでしょう。灯は反射板がない限り全方向を照らしています。本尊を照らすと同時に私をも照らしているはずなのです。しかしこのままでは照らされている自分は見ることはできません。鏡のようなものがあって初めて私を照らしていることがわかります。
 ご本尊なる阿弥陀如来も私たちを照らし続けてくださっています。蝋燭などの灯と同じように照らしていただいている自覚は全くありません。ご本尊に向かうと眩しいと感じることはできるかも知れませんが。ご本尊の光も鏡のようなものがあって初めて照らしてくださっている自覚ができるのです。ご本尊が照らしてくださっていることを知らしむる鏡について善導大師は、「経教はこれを喩ふるに鏡のごとし」とおっしゃっておられます。お釈迦さまのお説教がおさめてある「御経」というものが私たちにとって鏡のようなはたらきをしてくださる、この鏡によって初めてご本尊の光によって照らされている自分が見えるということなのでしょう。またお釈迦様のお説教だけが鏡のはたらきをするのではなく、お釈迦様のお説教を、お説教として、尊い教えをしていただかれてきた方々、歴史も私にとって避けようのない事実を映し出してくださっているのではないでしょうか。
 蝋燭や輪灯はご本尊を映し出すための道具なのですが、それだけではなく、ご本尊が我が身を照らしてくださっている事を指し示しているのではないでしょうか。ご本尊を飾るということはご本尊のお徳を讃えるということでもあるのです。

126 お内仏のお世話⑤佛華

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お荘厳の伝統の中にもいろいろと私達の先輩方はいろいろな願いを込めて作り上げてこられています。 以前先輩より「なぜ仏花(仏様にお供えする花)に菊をよく使うかわかるか」と訪ねられたことがあります。私はわからずそのわけを聞くと、仏様と私たちの関係で一番大事なのが聞くということなので、そのことを忘れないないために、そして仏様の前に座る度に思い出すために私たちの先輩方は菊をお供えされてきたんですよ、と教えてくださった。聞くと菊の言葉遊びのように感じその時は私はその事を半信半疑で聞いていた。しかしそのことをなぜか最近よく思い出すのです。なぜか頷いてしまうのです。
 私達と仏様をつながり続けるには私達に聞くという姿勢が大切です。しかし、人生の参考として聞くというのではダメなようであります。仏様を仏様としていただくこと、お釈迦様の言葉を「教え」としていただくそういう姿勢が大切なのです。それは仏様を絶対的に信頼するということであります。お釈迦さまが私達に「お念仏をして幸せになりなさい」という勧めをいただき、何の疑いもなく実践していくということです。
 しかしどうでしょう。私達はどこまでお釈迦さまを信頼しお念仏を称えさせていただいているでしょうか。どこまでお念仏を信じ称えているでしょうか。お念仏を称えれば称えるほどほど私が仏様を疑っている心が見えてくるのではないでしょうか。恥ずかしいことであります。しかしこのことは南無阿弥陀仏という言葉となった仏様が私に知らさせてくださっているのです。言うなれば仏様の御利益として疑う私を知らさせていただいているのです。またこういうおまえだからこそお念仏しかないと教えてくださっています。
 仏教を聞くという横柄な姿勢ではなく、私の生き方を仏教に聞くという絶対信頼、聞くしかない私の有様を先祖は私達に仏花として菊を飾り指し示してくださっていたのです。