342

今月のことば 殺してはいけない殺されてはいけない

 仏教徒の生活規範である戒の一番最初に殺生戒というものがあります。これは生きとし生けるものを殺してはなりません、というものです。ごくごく当たり前のことだと感じている方は多いかもしれません。しかしよく考えると結構難しいこと、いや不可能なことと気づかれることでしょう。私たちは食事を食べるということは、いのちをいただいているということだからです。ところでなぜお釈迦さまは私たちに生きとし生けるものを殺してはならないという決して守ることのできない生活規範を定められたのでしょうか。
 私はその問いに答えるものを持ち得ていません。本当にわかりません。しかし私たちは動植物を殺し続けなければ生きていけないから仕方のないことだとも思えません。大切なことだけど守れないというように感じでいます。こういうふうに思っていると殺生戒は決して守ることはできないがせめて食事は精進料理にしようとか、せめて人を殺さないようにしようとかというふうに展開していくのではないでしょうか。
 さて、今お釈迦さまから私たちは、生きとし生けるものを殺すなと、とてつもなく大きな宿題をもらっているわけです、皆さんはどんな応えをだしますか?正しい答えを出すということよりも一人お一人がそれぞれ考え実行することが大切だと私は思っています。

341御文をいただく其の五九五帳目第八通③

阿弥陀如来はなぜ私たちを容易に極楽に生まれさせようとなさったのか

 阿弥陀如来様は元々仏という存在であったわけではありません。法蔵菩薩という名前の菩薩様でありました。その法蔵菩薩であられた頃、仏になる修行をなさるわけです。ただ仏になればよいという考えで修行をなさっておられたわけではなく、どんな人でもすくいとる仏になりたいと思っておられました。そして法蔵菩薩は他の仏様に認められ阿弥陀仏という仏様になられました。仏になられてもあらゆる人をすくい取りたいという思いはなくなっていませんでした。
 才能があったり努力が持続する方ならば、阿弥陀さまがなされたような仏になる修行をその人に教えても達成することはできるでしょうが、才能がなかったり、修行をしたくてもできない環境の方はそうは行きません。ですから阿弥陀如来様は厳しい修行を求めたのではなく、ただ救われたいという気持ちを持ち続けなさい、そうするといつか必ず浄土(極楽)という世界に生まれさせてやり、その国で身も心もきよらかにして、やがて仏とならし」めてあげようと誓われたのです。
 阿弥陀さまは私たちにご褒美として容易に極楽に生まれさせようとなさったのではなく、私たちを見てこういう私たちには容易な道しか無理だと思いわざわざ念仏往生の道をお建てになられたのです。いわば大いなる悲しみから発った救いの道なのです。
 私の身が明らかなればなるほど、自分の愚かさが身にしみれば身にしみるほど私たちは阿弥陀さまのご苦労が理解できるのではないでしょうが、また阿弥陀さまの救いのありがたさに頷くことができるのではないでしょうか。私たちの先祖をはじめとする念仏を称えてこられた方々は本当に念仏を称えながら自分の元にまで届いた念仏をありがたく思われていたことでしょう。

340

仏教は悩みが消える道ではなく安心して悩める道である

 皆さんにとって仏教とはなんでしょう?いきなり唐突なことを皆さんに聞きますが、みなさんはどう考えられますか?
 仏教は成仏道ともいいます。仏になる道です。そう言う意味で多くの方は誰かを仏にさせてあげる道と考えておられるでしょう。それは全くの間違えではありませんが、誰かをほとけさんにさせるのは私たちの仕事ではなく、仏様の仕事です。ですから私たちが仏になってからそういうことができるのでしょう、多分。仏になるのは「私」です。私が仏になるための道を歩んでいくのが仏教なのです。
 仏道を歩み続けるには仏様に成りたいという気持ちをもちづづけることが必要です。その気持ちを忘れたりなくしてしまうと、歩みが止まったり、全然違う道を歩んでしまいます。仏道を歩み続けられた先輩方の話を伺うとこの心を持ちづづけることが本当に難しいとおっしゃいます。
 仏になりたいということは自分は仏ではないということを知ることと、そのことがどんなに悲しいことなのか知ることなのです。この悲しみによってずっと仏道を歩み続けることができるのでしょう。ある意味悲しみこと、悩み続けることが仏道を歩むともいえるのかもしれません。
 今回今月のことばとして「仏教は悩みが消える道ではなく、安心して悩める道である」という言葉をえらびました。これはインター寝とをうろうろしていたらともだちがお寺の掲示板に貼った言葉として見つけたものです。
 悩みがなくなったり消えたりするのは仏様になってからのことです。ずっとやや身は消えませんし、悩み続けなければなりません。我が身を振り返ればその仏になるのはいつのことやらと思ってしまいます。いやになるかもしれません。しかし悩むということは仏道を編み見続けている証でもあり、人間として生きている証でもあるのです。いわば悩むこと、悲しむことが私たち人間の宝物なのです。 
安心して悩みましょ。

338

御文をいただく 其の五八五帳目第八通② 南無阿弥陀仏という仏様

 阿弥陀如来様のおはたらきは、ふたごころなく念仏を称えとなえたものを浄土に生まれさせ、やがて仏になさしめてくださるというものです。しかしそれだけではなく、私に念仏をなんとか称えさせようと、私のまわりで念仏の声をいろんな方のすがたを借りて響き渡らせてくださったり、その他いろんな私にはたらきかけをくださったりしていただいているのです。これも阿弥陀さまの大事なおはたらきです。阿弥陀さまが南無阿弥陀仏という言葉となって今までそしてこれからも現れてくださるのです。時たまでもたまたまでも念仏が称えられているのは阿弥陀さまのおかけです。まだ念仏が一言も称えることができない人にも阿弥陀さまははたらき続けられています。
 そのために阿弥陀さまはとてつもない長い間修行をされ、長い間考え抜かれて本願という仏になる誓いを建てられ他の多くの仏様から仏と認められたのです。
 私たちは阿弥陀さまのおはたらきがあってやっとここまでできるようになったのです。仏になる道を不思議にも歩もうとしているのです。

337

4月8日はお釈迦さまのお誕生日です

 お釈迦さまはヒマラヤ山脈の麓にあるシャカ族の国の王子様としてお生まれになられました。今から約2500年くらい前のことです。お釈迦さまのお母さんであるマーヤ夫人がルンビニという公園で休んでおられたとき、アショーカというきれいな花に右手を伸ばし、一つ採ろうとしたとき、右の脇からコロンとお生まれになられ、そしてすぐに立ち上がり七歩歩いて「天上天下唯我独尊(生きているものがすべて尊いいのちを持っている)。世界中の人々の苦しみを取り除きます。」とおっしゃられたと伝えられています。

聖典講座

高岡教区第8組主催
正信偈のお心を聞く講座です。今回が2回目で合計3回(次回5月16日)常入寺にて行われます。講師は皆さん方から好評でした、一昨年報恩講でお話しいただいた金沢市の松扉覚(しょうひさとる)さんです。参加無料ですので是非ご参加ください。
日 時  4月18日(日)午後2時より4時くらいまで
会 場 常入寺本堂 布教使  松扉覚師(金沢市本泉寺)
参加費 無料(ただし、途中賽銭を集めさせていただきます)
※マスク着用など感染予防をしてお越しください

通信336

私の願い 仏の願い

 この間ある方から「神や仏もあるものから始まる宗教」という言葉を聞いてドキッとした記憶があります。多分なのですが、この言葉は私たちは何を拝んでいるのか、私たちは何のために拝んでいるのかと言うことが問われているのではないかと感じています。
 私たちのお参りというのはお願い事をするのが基本ですし、願い事が叶うかもしれないからお参りするのでしょう。「先祖が安らかでありますように」「健康でありますように」私たち日本人はそういうことを神仏に祈ってきたことでありましょう しかし、それでいいのだろうかという思いも私にはあるのです。自分の思いが叶う世の中ってよい世の中なのでしょうか。
 仏教では人間を凡夫と押さえます。私たちの宗祖親鸞聖人は「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ多くひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえずたえずと水火二河のたとへにあらはれたり」とおっしゃっておられます。無明・本当のことがわかってなくて、煩悩が我が身に満ち満ちているのが人間であり、私であるといわれています。私の煩悩まみれの願い事は神仏がかなえてくださるのでしょうか。そういう願い事をしている私たちをどのように見ておられるのでしょう。また神仏は私たちのどういう願いだったらかなえてもらえるのでしょう。一度考えてみないといけないことなのだと思うのです。
 神仏は私たちにお願い事をするなとは言われないでしょうが、どういうことを願ってほしいと思われているのでしょう。願い事をしながら考えてみませんか。

共に生きる道

 皆さんジェンダーフリーという言葉をご存じでしょうか。社会的性別にこだわらないという意味です。また、「従来の固定的な性別による役割分担にとらわれず、男女が平等に、自らの能力を生かして自由に行動・生活できること」と定義されます。男女共同参画という言葉につながる言葉だと思ってます。
 このことが今世界各国から日本が遅れているのではないかと思われているみたいですね。まぁ、実際私の生活を振り返るとまだまだだなって思う次第です。(汗)
 今年の二月の初めよりこのことがよくテレビに取り上げられていますよね。以前総理大臣もなさっていた、今はもうやめになられましたが、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長だった森喜朗さんが女性蔑視と受けとめられる発言をしてしまい世界中で話題になりましたね。私はやっぱり男側にたってものを見てしまっているからか、高齢だし仕方ないな、でも立場あるお方だからやめなくてはならないなと発言ををテレビで見て思っていました。でもその後のテレビの反応を見ていると仕方ないっていう雰囲気はなかったですね。 
 彼が辞意表明をしたときにまた、「解釈の仕方だ」とか「そういう意図でいったわけではない」「女性を蔑視する気持ちは毛頭ない」というような反省の気持ちがないのではと受けとめられるようなことをいわれてしまい、また物議を醸すことになってしまいました。
 さてここからが私の言いたいことなんですが、彼を擁護するために言うのではなく、差別ってこういうものだということ言うために言うんですが、そういう意図はなかったとか女性を蔑視する気持ちは毛頭ないといわれたこと私は嘘ではないと思います。蔑視する気がなくても結果してしまうのか差別というものなのではないかと私は思ってます。言葉を気をつけてさえおれば、行動さえ気をつけてさえおれば差別はなくなるものではないと思うのです。三つ子の魂百までといわれるくらい奥までしみこんでしまっていて、わずかな割れ目からしみ出してくるものなのではないでしょうか。そういう悲しみ的なことに気づいて行くことが差別をなくすという歩みでは大事だと私は思います。あの人は差別者だ!と他人を非難するにとどまるのではなく、私に染み込んでしまっている差別性に一緒に気づいて行くことが本当に大事だなって思うわけです。

大谷派八組 (お東の射水周辺の集まり)聖  典  講  座
正信偈のお心を聞く講座です。今回が初回で合計3回(4月18日、5月16日)常入寺にて行われます。講師は皆さん方から好評でした、一昨年報恩講でお話しいただいた金沢市の松扉覚(しょうひさとる)さんです。参加無料ですので是非ご参加ください。
日 時  3月21日(日)午後2時より4時くらいまで
会 場 常入寺本堂 布教使  松扉覚師(金沢市本泉寺)
参加費 無料(ただし、途中賽銭を集めさせていただきます)
※マスク着用など感染予防をしてお越しください

彼岸会兼城端別院巡回法座
日 時  4月4日(日)午後1時30分より3時30分まで
会 場  常入寺本堂   布教使 未 定
参加費 無  料(ただし、何度かお賽銭を集めさせていただきます。)
また、城端別院への祠堂並びに万人講の受付をいたします。
※新型コロナウイルス感染症拡散予防のためマスクをつけてお越しください。

335

お経
 皆さんはNHKの『チコちゃんにしかられる』という番組を見たことありますか?私は毎回と言っていいほどよく見ています。とても面白い番組ですね。わかっているようで本当はわかってないことを面白おかしくあきらかにしていく大好きな番組です。
 その12月はじめ頃の放送で仏教の基本となる質問をチコちゃんはしていました。みなさんおぼえておられるでしょうか。その質問というのは「お経って何?」っていうものでした。さて皆さんは皆さんは5歳のチコちゃんにどのように応えますか?
 さて私住職がまずお応えしましょう。チコちゃんのようなわかりやすい答えではないと思いますが、ご容赦ください。お経というのは仏教を開かれたお釈迦さま、ゴータシッタルダのお言葉が収められています。お釈迦さまが書かれたものではありません。お釈迦さまが涅槃に入られ(一言で言えば亡くなられたということ)しばらくした後お釈迦さまのお弟子さん方が、お釈迦さまがお弟子さん方に諭されたお言葉を後世にもしっかり伝えていこうということになり、文字に書きとどめておこうとされました。それが今私たちが読んでいますお経なのです。いわば私たちが悟りを開くためのアドバイス、私たちが人間として生きていくためのアドバイスが書かれているのです。そういう視点からいうとお経は亡くなられた方に読んであげるものではなく、今生きている私たちが聞いていかなければならないものとなるのです。
 法事などの時、僧侶は仏壇に向かってお経を読誦していますので誤解されていたかもしれませんが…。実は僧侶は仏様の代わりに声に出してお経を読んで、そして僧侶もお経様を聞いているのです。僧侶を含めた人間みんながお釈迦様の私たちへのお諭しを大切な言葉として聞いている姿が法事の場のすがたなのです。
 ただ私たち僧侶が読誦しているお経は漢文をそのまま読んでいますので聞いていても何を言っているのはわからないのが現状です。ですから浄土真宗ではよくお経の後にお説教として読誦したお経のお心が話されるのです。お経の内容をしっかり知りたいというお方は住職まで申し出てください。ゆっくりお伝えさせていただきます。
 漢文をそのままを聞いているので意味は全く伝わらないかもしれませんが、ただ聞いているときは少なくてもお釈迦様からの尊いアドバイスなんだと思って聞いてください。お願いします。

御文をいただく 其の五七五帳目第八通①

番外編
 月参りの時拝読文として読まさせていただいている御文が一月から変わりました。本来というか、順番でいえば五帖目の第七通になるのですが、いろいろ考えた末、一つ飛ばして第八通にしました。その理由は内容が悪いということではなく、私が皆さんと一緒に読む気になれないということです。一つ飛ばした御文の冒頭には今の概念からすると女性を蔑視しているような表現があります。今年から読ませていただいている御文にも同じ表現があるのですが…。飛ばしたものには露骨というか、断定されていますので、なおさら躊躇していまいます。
 私は近頃、共生社会の実現が大事だと思い生活しています。そのなかでも性別による役割分担など性差別を少しずつ取り払って行かなくては思っています。思っているだけで私自身変わらないのですが、でもそうしたいと思っています。そのなかで冒頭から「女性は五障三従だ」と断定している言葉がのっているものを皆さんと一緒に声を出して読むということに違和感を覚えたわけです。七通目に全く教えがないとは思ってませんが。
 ということで今回はとりあえず一つ飛ばして皆さんと読んでいこうと思っています。よろしくお願いいたします。

涅槃会兼井波別院巡回法座
日時 2月7日(日)午後1時30分より3時30分まで
会場 常入寺本堂   布教使 未 定
参加費 無  料(ただし、何度かお賽銭を集めさせていただきます。)
また、井波別院への祠堂並びに万人講の受付をいたします。
※新型コロナウイルス感染症拡散予防のためマスクをつけてお越しください。

334

年頭によせて
                               住職 青井和成
 二〇二一年という年を迎えました。昨年のことを忘れて新たな一歩を踏み出したいと思ってしまう昨年でしたね。新型コロナウィルスの感染症が大流行し、いままで当たり前にできていたことが突然にできなくなった年でした。また世界的なこの感染症大流行により東京にて行われるはずだったリンピックも一年延期になってしまいました。この感染症の大流行が昨年で終わってくれればよかったのですが、どうもそうではなさそうですね。ワクチンも各国で生産されているそうですが、それが私たちのところにまでやってくるのはいつになるののでしょうか。こんなことを考えてばかりいるとせっかくの新年なのに暗くなってしまいますね。
 私たちの宗祖親鸞聖人は「円融至徳の嘉号は悪を転じて徳と成す正智」と聖人の主著いわゆる『教行信証』に書かれています。私たちに先祖の方々が私たちに残してくださった南無阿弥陀仏は悪を転じて阿弥陀如来の徳となる智慧であるといわれています。悪がコロッと善に変化するというわけではありませんが、念仏を称えることによって私たちが悪だと思っていることの中から仏様のはたらきを感じさせてもらえるようになるといわれていると私は受け取っています。新型コロナウィルス感染症のことでいえばこのコロナ禍を見つめると私たちが本当に生きていく中で大切にしていかなくてはならないことが知らされてくるということなのではないでしょうか。ただただ怖がっているだけではなく、怖がりながらも今おきていることをしっかり見つめることが大事だと感じています。
 昔やっていたテレビアニメの一休さんのように「一休み一休み」して立ち止まり、今までを振り返りながらこれからを考えることが大事だと思うのです。

通信333

初詣の心構え

 最近新年の挨拶が少し変化しているような気がします。先輩方の新年の挨拶は「明けましておめでとうございます。 旧年中は大変お世話になりました。 本年も変わらずよろしくお願いします」だったように思います。しかし最近は「明けましておめでとうございます。 本年もよろしくおねがいします。」と言われる方が多いような気がしています。「昨年中(旧年)はお世話になりました」と言われない方が多いように思うのです。まぁ、最近は何でも短縮して言うのがはやっていますからね。「あけおめ」で済まされる方もいるのですから仕方がないと言えば仕方がないと思うのです。しかし省略するところが私は気になっているのです。これでは昨年お世話になったことの御礼を言わず、自分の要求だけを言っているように聞こえるのです。言われている方はそういうつもりは全くないのでしょうけど、気になるのです。また御礼を言うことの大切さを感じるのです。
 さて、お寺やお宮さんにお正月になると初詣に行かれる方は多いと思います。皆さんは初詣で何をされますか?やっぱり新年がよい年にしてほしいというお願いが中心ですが?それでいいのですか?と私は皆さんに問いたくなるのです。oお願いをするのは人間の性みたいものですからしてはいけないとは思わないのですが、本当にお願いだけでいいのでしょうかね。今、うちの息子たちはほとんど大きくなり来年の四月には上3人が働くことになります。ですから親におねだりすることは上の子たちはほとんどなくなりました。だけど小さいときは私たちの財布の事情を全く考えないで「あれ買って!これ買って!」という要求ばかりしてきて本当に腹が立ちました。皆さん方はどうでしょう。やはり要求ばかりしてこっちの言うことを何にも聞いてくれないという怒りがおこってきてませんでしたか。
 同じようなこと初詣で私たちしてしまっているんではないでしょうか。神仏は私たちの一方的な要求にどう思っておられるのでしょうかね。少し考えてみないといけないことなのではないでしょうか。少し一年お世話になったことを振り返ってみませんか?そして御礼を言ってみませんか。少しスマートに見えるように思えるのですが…。