初詣

初詣とは初めて詣でることを意味するのでしょう。新しい年を迎えて詣でることです。

詣でるとは、貴所に行く意の謙譲語と辞書にはあります。ですから自分が大事にしているところに行くことをいうのでしょう。
そういう意味からすれば初詣はお願い事をするために行くのではちょっと意味がずれてしまうような気がします。
また私が大事にしているということはどういうことなのかということも考えていかないといけないことなのでしょうけど、
私は決して自分の思いを叶えてくれるところが自分にとって大事なところとは思いません。こんな私が私の思い通りになることは本当に良いことなのでしょうか。私は疑問に思います。
私もこうなりたい、こうしたい、こうしてほしいといろいろ思うわけですが、だけども自分思い通りになる世界がよい世界なのかという問いを先輩方々より問いをいただき続けています。
初詣は自分にとって大切にしている宗教施設に行くものなのでしょう。少なくても平生より縁の深いところにいくことが本来なのではないでしょうか。
御利益の利くところへいくというのは間違いのような気がしてならないわけです。

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投げやりな気持ち

ここ数日心の奥底にとてつもない投げやりなきもちが居座ってる、多分疲れているからだと思うんだけど。
そんな中でちょっとしたトラブルもぼちぼちと、ご迷惑をおかけいたしております。
ちょっと落ち着いてきたんだけど、

その中で思ったことをちょっと、
自分では、投げやりな気持ちがどこからともなく湧いてきたように理解しているけど、それは本当なんだろうか。
もしかしたらとうの昔からあって、たまたまそれが大きくなっただけだったり、
本当は、たまたまというかやっと気づいただけなのかも、なんてふと思ったのです。

だから投げやりな気持ちなんてなくそうと思ってもなくならない、じゃないかな。
反対になくそうとすればスルほど、その気持ちに気づいたり、自分にもどかしくなり増してしまうかも、なんて思い出しました。

やっぱ気長につきあっていくつもりで行くしかないな、

そういうふうに思う、そういうふうに気づかせてもらってる今日この頃であります

最近の常識についていけなくなってきた、とうとう。

先月お亡くなりになられたお宅の御主人と、納骨の費をこの間打ち合わせをしていました。

そうすると願主さんはちょうど35日の9月19日にしたいとおっしゃった。
私は何も考えず、月曜日ですか?
と聞き直した。
私はまた念を押して、
皆さん集まりやすいですか、土曜日とか日曜日でなくても大丈夫ですか?と聞き直した。
願主さんは優しく、
大丈夫です、ウチは年寄しかいないので、平日でも大丈夫ですよ
とお答えくださった。
数日たってからやっとわかったことがある、
今年は9月19日は休日だったのだと。
月曜日だけど敬老の日で国民の休日であったことをやっと理解したんです。
願主さんは優しくお答えくださったけど、
こいつ敬老のひだということわかっとらん、
そう心の中で思っておられたことなのだろうか。
願主さんも自営業だし、子どもさんももう「中年」といわれる世代だからわかっておられなかったんだろうか。
今更なかなか聞くことができない
ホント、ハッピィーマンデーというのについて行けない。
私の中では敬老の日は9月15日。
なかなか抜けない、私の常識、
昔の常識を抱え込んだままの俺だ。
頭の切り替えがなかなかできん。
とうとうそういう歳になったのだろうか。
もうそろそろ自覚しないとね。
だって、もう人生の半分以上とうに過ぎてるんだからね。
其の自覚もなかなか切り替えられない、というか納得してない私だ。
新しいものに飛びつかなくなってしまった今日この頃です。

ここに3日通り雨が通り雨の域を超えて降ってます。

先日も、教務所に行くため教務所近くの電停に降りた途端、豪雨、雷ごろごろ、雨によって前が見えませんでした。家を出たときは雨が降ってなかったので傘も持ってませんでした。
ですから、パンツまでびちょびちょ。びしょ濡れの中会議に参加しました。Tシャツは乾いたからと言ってそのあと食事に出てしまった私でした。
今日も畑に出ると、茄子だけで籠いっぱいに、それも大きくなったモノばっかり、焼くしかベル法宝がありませんよ!っていうモノばっかり。
近所に配ろうかと思っても近所は農家ばっかり、同志摩署って言う感じです。
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今の降り出しました、どうも大雨警報が出ているみたいです。

法衣の色

昨日13ヶ月ぐらいぶりに葬儀の導師を勤めさせて頂いた。

非常に閑古鳥が鳴くお寺の秋色を差せてもらっていると言うことです。
たまたま一昨日のお通夜の時、私の子どもの友人の親御さんがお参り頂いていたそうです。
その時の間奏がヨメハンに入ってた、
「あんたたちの衣地味だね」だって。
私はここ最近ずっと、黒衣、黒直綴を好んで着用させてもらってます。
葬儀の時や、衣体の指定がないときすべて、黒衣を通してます。お通夜、法事、その他…
黒色にこだわり、直綴にこだわってます。ついでに中啓もほとんど持ちません。
裳附でなく直綴なのは、直綴は僧侶が着るものと言うより宮中ので衣体、天皇に謁見するときの衣体であったものが始まりなそうな。一方直綴は正式な僧侶の衣体の略式系。
どっちを選ぶかとすれば私は迷わず、直綴です。
衣体の色についてもほとんど許可制。草書の位によって決まる。何を着ても良いというわけではないのが基本。
百歩譲ってその人の努力など個人の功績によって僧侶の位が決まり切るcoronの色が決まっていくのであればまだ良いのかも知れないが、ほとんどの場合、お寺のおおきさ、お寺の規模、お寺の格によって大体決まってくる。今となれば金次第。
というわけで私は僧侶の基本色黒を好んできています。
だから、どうしても私が朱となって勤める法要などは、衣体からすると地味になってしまう、けっして華やかとは言えない。
お浄土の蓮の花のように色んな色の衣を着た僧侶が集まって法要など勤まるのも、これはまた美しいものだと思う。自分も色んな色の衣を着たいと言うことを思う。だけどお金を払ってまで、位を上げてまで期待とはあんまり思わない。
僧侶の共通色としての黒を好む。
あなたは金まみれになって位を上げ色んな色の衣を着る僧侶が好きですか?
地味だけど位を気にしない僧侶が好きですか?
聞きたいし、選んででもらいたい。
結構、派手な色の衣を着るくらいのたかい僧侶が好きです、という人が多いかも知れないけどね。
まぁっ 良いんだ!どうだって。

マスクは効果があるのか!

先々週末から熱を出してしまい一週間ぐらい寝込んでいた。お医者さんで見てもらったときインフルエンザっぽいけど、検査では出なかったといわれた。多分、その時熱が低く出なかったのかな?そんなことで出たりでなかったりするのかな?良くわかりませんが…

熱で寝込んでいたためヨメハンから家の可かでもマスクをするようお達しが出た。
しかしい潜る敷くていやなので拒否していた。
その結果なのかも知れないけど、三男坊がインフルエンザになっちゃった。
私は思う。マスクをするのはそんなに効果があるのか、と。
近年、花粉症の方が増えたりして、不織布製のマスクが主流になり、マスクの性能は間違いなく上がっている。それは疑う余地は私はありません。否定しようとも思いません。
でもその効果っていうのは、自分が感染しない、花粉を体内に入れない、そういうことにはナノではないだろうか。
限定的だと思うんですよ。
碑文の病気を人にうつさない道具としてどれだけ、効果があるんだろう。私は疑問に思う。
だって、メガネをしている私がマスクをすると、かならずって言っていいほど、メガネが曇ります。どんなマスクのかけ方をしたとしても。
それは空気が漏れているって言うことでないのだろうか。フィルターを通さないで域が外に出ているっていうことなのではないだろうか。
確かに域をするときはマスクが密着した感じがするし、マスクが口に近づいてくる。そういう感じがするのだから、息を吸うときに吐こうかがある。だけど、息を吐くときはどうなんだ!
漏れっぱなし何ではないでしょうか。
唾を空気中に散らばらせないと言うことは多少効果があるけど、体内のウイルスを体外に出さない、ということにはそんな効果がないと私は思っている。
だから、自分がウイルスから身を守るためにはマスクはしますけど、人に写さないためにという目的のためには、私はマスクをしたくありません。ましてや家の中では。

せちがない…

今朝、四男坊にせかされて、保育所までコミュニティバスで行きたいといわれ、雪が降り続けるなか、しかたなくバス停まで行った。

自宅から保育所まで1キロも満たない距離なんだけど、百円だし、という思いがあってたまに乗る。
だけど積雪のためかなかなか時間になっても来ない、歩いてもいける距離ダシと思い、歩き出した。
言うまでもなく、ばすていとばすていのあいだでばすがつうかしていったことはいうまでもないことだ。
小学校の通学路と言うことがあって一部歩道が整備されているのですが、積雪のため通るのを断念。全く除雪してないというわけではなかったのですが、手をつないで並列で歩くのにはちょっと無理かナット思って、車道を歩いて行った。
車道も一部融雪装置がある。水が流れていて雪を溶かしていた。
なかなかこれは厄介者で、どうしても見津たまりができるのです。今日も道は水たまりばっかり。
ここで本題。
そんなに交通量の多い道ではないのだけど、保育所まで歩いて行けば五台以上とすれ違う。
たまに車道に人が歩いていると認知すると最徐行で行ってくれる車もある。だけど大概最徐行はしてくれない。少しはスピードを落としてくれるのだけど、
案の定、車によって水ははねる、そして自分にかかってくる。
自分もカッパズボンをはいていればいいのだけど、バスに乗るつもりだったので、そういう容易はしてない。
しっかり、ズボンにかけられてしまいました。
かけられてしまうと気分は良くない、ヤッパリ腹が立つ、
人がいるのが判れば、最徐行して水しぶきが上がらないようにするのが当然のことだろ!なんて、思ってしまう。
仕事に行かなければならず、決まった時間に行かないところがあるのは判るけど、歩行者の立場で言えば、強気になる。
本人の資質もあるけど、急がなければならない事情がそうさせてるのだろうとも思う。
もっとゆったりとした時間が送ることができてればこんなこと起こらないだろうし、自分もゆったりと時間を送ってれば腹も立たないことなのだろう。
こういうせかせかしなくてはならない時代だからこそ、,腹も立ち、腹が立つこともされるんだよね。
そういうことが判ってても許せる訳じゃ有りませんけどね。

さびれていく街 これでいいのか!

先日仕事で北陸にあるある港町に行ってきた。

仕事は午後だけのものなので、午前中街を歩いた。
いうまでもなく夜もまちを紹介してもらった。
駅前やその他のところがあるって井戸整備されているというか、奇麗に作り直されている。
そういうことがあってなおさら、街のさびれが目に入った。
石畳が曳いてある道、だけどそこには焦点が少ない、これ、昔お店だったんだろうなぁ~っっていうおも影は残ってる。商店街の賑わいはほとんどない。店舗にシャッターがあれば、シャッター街といわれるんだろうな~。
ホントにこれでいいのか、そう思った。
高齢化、少子化、そして都会に人が流れていく、
その津波が、地方、田舎に押し寄せている。
否、
人と活気が都会にさらわれていってる。
都会がさらってるんだ。
何となくそう感じた。
街も寂しいし、そこを歩く私の心も寂しくなった。
以前「在日琉球人」を多分名乗っている人が、
日本に天皇制がある限り、日本に文化はない。
そう仰ったことを思い出す。
今、地方の文化、言葉、それがみんな奪われて行ってる。
それも気づいてみれば、である。
いつの間にか田舎にすごすものも中央の言葉、中央の文化を自分の文化言葉としてしまってる。
自分もそうだ。
そのながれの中で、人と活気が中央に流れて行ってる。
地方の活気を取り戻すのは、本当に地方に住むものの責任なんだろうか。
特色のない街にどんどんなってる、都会のミニ版にしかなってない。
多分、もっと大きな視点で見てもそうなのだろう。
グローバル化という言葉の中で、ドコモかもアメリカのと開花して行ってる。
同じ土俵で戦い、同じ戦い方をする中で、勝てるものは少数
そして一極化していく。
お金が一ヶ所に集まる。
特定の人だけがお金持ちになっていく。
その他は吸い上げられていくだけ。
またその中で、自分だけは吸い取られる了を減らそう、吸い取られた文、あそこから吸い取ってやろう。そういう争いが続けられている。
街が街の文化言葉で生活してゆく。
そういう中でしか、街の活気は残せないのではないだろうか。
でも、今から間に合うのだろうか。
地方分権、地方自治、そういうことがもっともっと小さい単位で行なわれていかない限り、私たちの文化は、護らなければならない文化でしかなく、保存しないといけない文化言葉にしかならない。
田舎は、都会の人が癒される場では決してなく、また昔を懐かしむ場所でも全くない。
私たちが人として生活する場なのだ。
私はそう思う。

長男の卒業式

チョッと今更っていう感じもあるんですけど、先週長男坊が小学校を卒業しました。

式にも参加させていただきました。
その中で、6年間を振り返ってしましました。っていうか、彼が生まれてからのことが色々思い出されました。
彼は証書をもらうとき、「スポーツ関係の仕事に就きたい」と発表しました。
正直、が~んとやられました。
彼は、二年生まで少年野球をやってました。
だけど、
彼のいじけよう、っていうか、出来なくて殻に閉じこもっていくすがたが目について、ある意味こちらから止めることを促して、少年野球を止めました。
それからも、良くプロ野球の試合の模様をテレビでよく見てました。何となくわかってはいたんだけど、
ああ言われれると、何ともいえない思いが湧いてきました。
申し訳なかったって。
彼の夢をひとつ奪ったのは間違えないようです。
大事なことを教えてくれた卒業式でした。
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月末

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今日の午後、そして明日の朝で今月お話しをさせて戴く役割が終わるんですけど、
けどなんです、
月末なんで
寺報を仕上げないといけないんです。
一日発行でまだ今の状態で仕上がってません。
っていうか、集中できません。
やる気が湧いてきません。
でも明日帰ったら過ぎにお参りに出ないといけない事実もあります。明日は次男三男坊の野球の合宿というか宿泊です。それにおつきあいする予定です。
だから出来れば午前中にはお参り終えたいのです。
だから寺報も今日中に終えないといけない事情も私にはあります。
事情はあるのですが、体が理解してくれません。
やる気が起きません。