380 御文をいただく 其の六十八五帳目第九通④
御文をいただく 其の六十八五帳目第九通④_たすけましますという事が本当にわからない
浄土真宗の教えとは阿弥陀如来様のお救いを信じ南無阿弥陀仏と念仏申す生活をする教えですが、だけど、この私を阿弥陀如来様がたすけてくださいますよといわれてもなかなかピンとことないのも本当のところなのではないでしょうか。そう感じているのは私一人だけなのでしょうか。はてさて…
阿弥陀如来様の救いがピンとこないということは自分が阿弥陀如来様に救ってもらわなくてはならない身であるという事に頷けていないからなのでしょうね。
仏様の救い以前に誰かのお世話になるという事があまり好きでないし、自分ひとりでなんとかやっていけると思ってしまっている自分がいるからなのでしょうね。お金さえあれば何でも買えますし、何でも済んでしまうのがこの世の中ですもんね。誰かに助けてもらわないとやっていけないなんてあんまり感じられないかもしれません。
念仏を大切にされてきた先輩方は「おかげさま」と思いながら生活をしてそしてそのなかでお念仏を称えてこられたように思います。また、自分を信じて、自分の価値観だけを信じて生きていっても本当に幸せになれるんでしょうか。私はなんとなくですが、そうではないような気がしています。何か大きな誤解をして生活をしているのが私たちなのかも知れません。
阿弥陀如来様が私を救ってくださるのだと狂信的に信じていく前に阿弥陀如来様の救いがなぜ今まで残ってきたのかという事を私ごととして、私を見つめ直す事をとおして訪ねていく事も大切なのではないでしょうか。
仏教はわかる教えではありませんなるほどその通りとうなづく教えです
親鸞聖人は主著である顕真実教行証文類の中で善導大師のお言葉を引用されて仏教の学び方についてお示しくださっています。一つには「解学」これはわかるようになることを目的とした学び方です。経典などを読んだり理解する学びであります。いわば私たちが思う勉強です。そしてもう一つ、仏教の学びとして「行学」というあり方です。日々の生活の中で仏教を確かめ自分の生きる道をあきらかにしていく学びのことです。この二つの学びはこれがよくてこれはだめだというのでは決してありません。知識を身につける学び解学も大切です。ただこの学びで終わってしまうことがもったいないことなのです。次のステップがあるというか、解学と共に行学をしていくことが大事なのです。解学で終わらせてしまうことがもったいないことなのです。
そもそも仏教というのはお釈迦様が私たちにされたお説教が基です。その教えに生きていくことが仏教です。他人ごととしてこんな生き方があるんだと聞いていくのではなく、私ごととして自分の生き方として学んでいくことが肝要なことでしょう。言い換えればお釈迦様は何でこんなことをおっしゃっておられたんだろうかということを私の人生を振り返りながら確かめて行く事が大事な仏教の学びなのでしょう。
373_報恩講案内号
報恩講厳修
十月三十一日午後一時三十分より十一月一日午後三時まで
報恩講とは私たちの宗祖親鸞聖人のご命日を縁として勤められる年間行事の中で一番大切な仏事です。いわば親鸞聖人のご法事とも言えるものです。
報恩講では皆さんのお念仏の声をそして親鸞聖人のみ教えを共に聞いていきましょう
日 程
10月31日(火) 午後1時30分より 午後のおつとめ
11月 1 日(水) 午前9時30分より 午前のおつとめ
午後1時30分より まとめのおつとめ
勤めの後に毎回お説教があります。
お話しくださるのは 松井 勇さん(南砺市)です。
御文をいただく 其の六十七五帳目第九通③_雑行を棄てて本願に帰す
これは親鸞聖人の信仰告白ともいえる文章です。この言葉を聞くと思い出す言葉があります。それは九月までやっていたNHKの連続テレビ小説「らんまん」で松坂慶子さんが演じた槙野タキさんが主人公の万太郎に発した言葉「何かを得るということは何かをすてるという事じゃ」という言葉です。
親鸞聖人は本願に帰すと自分の生き方をあきらかにされるわけです。その信仰告白の言葉に伴って雑行を棄ててという言葉を付け加えられているのです。雑行というのは阿弥陀如来様が建てられた本願に基づかない行いです。本願に帰すということと雑行を棄てるということが同時性をもって語られています。一つの事を二つの側面から表していると言ってもよいのかもしれません。本願に帰するということは雑行を棄てるということなのだという意味も含んでいるのでしょう。
これもあれも選び取っていくというのは選びではなく、何かを選び取っていくということは何かと決別していくということなのではないでしょうか。今の私たちの生活はこれとは違って、あれもこれもと抱え込んでいって結局、身動きのとれないようになっていってしまう生き方をしていることもこの言葉から教えられているのではないでしょうか。
366_御文をいただく 其の六十六五帳目第九通②
御文をいただく 其の六十六五帳目第九通②
《現代語試訳》
浄土真宗でいう心の安らぎとは、ただ「南無阿弥陀仏」の六字のこころに頷けたときです。六字の心ということを具体的に言えば私たちが南無阿弥陀仏と帰命するならば、やがて阿弥陀仏がたすけてくださるこころと言うことです。
宗教とはある意味で生きていく中での安らぎを与えるものでしょう。その安らぎを浄土真宗では、ただ一つ南無阿弥陀仏のこころを、理解することと。ここではの述べておらられています。
言葉を付け加えるならば今わたしが聞いたり称えたりしている南無阿弥陀仏という念仏は私を今救うがために阿弥陀如来様からお運びくださっているのだという事実に頷きそしてそれが安らぎとなるのです。
念仏を称えてこられた先輩方が「信心」「安心」といっておられたのがこのことです。他人ごとで文章の意味からしたら難しいことではありませんが、私ごととして考えていくとわからなくなってきますね。阿弥陀さまからいただいた念仏と言われてもピンとこないのも確かなことでしょう。しかし他人ごとでも浄土真宗の教えを聞き続けていく中でやがて頷けるときもくるのではないかとも思います。阿弥陀差様がこんな私たちにもで私たちのために念仏と念仏を称える心を運んでくださっていいるのですから。そしてそのことを他力とおっしゃってこられたのでしょう。
364 御文をいただく 御文をいただく 其の六十五 五帳目第九通①
彼岸会
彼岸は年に2回あります。春彼岸と秋彼岸です。 春彼岸は3月の春分の日を中心とした前後7日間、秋彼岸は9月の秋分の日を中心とした前後7日間のことです。 彼岸の始まりは「彼岸の入り」、最終日を「彼岸明け」、そして彼岸の真ん中にあたる春分・秋分の日を「中日(なかび、ちゅうにち)」と呼びます。その期間に勤める法会を彼岸会といいます。
「彼岸」という言葉は、昔のインド地方の言葉であるサンスクリット語の「パーラミター(波羅蜜多)」が語源です。「向こう岸に至る」という意味があります。ですから彼岸とは私たちが今生きる、苦しみに満ちたこの世とは対照的な向こう側の世界、仏教の理想世界とされる悟りの境地や浄土のことです。
春分、秋分の日は昼と夜の時間がほとんど同じ日であり、太陽は真東から登り、真西に沈みます。ですから春分・秋分の日は現世と浄土が最も近くなる日とされています。また西方浄土(彼岸)がどちらにあるかわかる日、私たちが進むべき道がはっきりする日なのです。
お彼岸の日にはお墓参りをしたりして先祖偲びます。また先祖が私(たち)に「あなたも死す身だよ」と私たちに呼びかけてくださっていることに気づいていくことが大切でしょう。限りあるいのちをいただき、今を生きている私はどのように今まで生きてきたのか、だからこれからどのようにこれから生きていかないといけないのか、そういうことを振り返ったり考えたりすることもお彼岸の大切な過ごし方なのではないでしょうか。
常入寺では毎年、城端別院の巡回法座と併せて彼岸会を勤めさせていただいています。よろしければ是非お参りいただきお説教を聴聞いただきたく思います。本堂を暖かくしてお待ちいたしております。
御文をいただく 其の六十五 五帳目第九通①
私たちの浄土真宗の教えは南無阿弥陀仏と称えて浄土往生を願い生きていくというものです。しかし私たちの先輩方はただ南無阿弥陀仏と声に出して称えていれば済むものでもないとよくおっしゃいます、安心・信心が大切なのだと。この御文でも「当流の安心の一義といふはただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり」と書かれています。安心とは安心する心、信ずる心を意味します。浄土真宗での安らぎの境地とは、ただ南無阿弥陀仏の六字に込められた阿弥陀如来のお心にうなづいていくことですと書きとどめられています。私が今不思議にも称えさせていただいている南無阿弥陀仏というお念仏が、なぜ私のところにやってきたのか、なぜ私が称えてしまっているのか、そういうことを尋ねていくことが大切ですよとおっしゃっておられるのでしょう。
359 報恩講案内号_御文をいただく五帖目第八通⑧
報恩講厳修
十月三十一日午後二時より十一月一日午後三時まで
報恩講ではお念仏の声を共に聞いていきましょう
日 程
10月31日(月) 午後2時より 午後のおつとめ
11月1日(火) 午前9時30分より 午前のおつとめ
午後1時30分より まとめのおつとめ
お説教は各と勤めの後にあります。
お話しくださるのは 松井 勇さん(南砺市)です。
※例年のごとく1日にオトキを用意しています。しかし、感染症拡散予防のためオトキは持ち帰り用の弁当とし、遠方の方以外はご自宅で召し上がっていただきます。(予定)
※お参りの際にはマスク着用にてお参りください。
御文をいただく 其の六十四五帳目第八通⑧
後生って何?
この蓮如上人がお作りになられた御文には「後生」という言葉が度々出てきます。私の読む限り重要なキーワードとして扱われているように思えます。単純に意味を訪ねていけば後の生ということですから、死んだ後のことと言うことでしょう。今、現代においてなかなか死んだ後と問われてもピンとこない人が多いのではないだろうかと感じてます。それは「死んだ後の世界なんてないよ!」「今しかないんだよ。」とお答えになられる方が多いようにお見受けします。それと関係しているようにみうけれれます。
今を大事に生きるということでは大切な考え方だと思います。しかし次の生がないと考えるのも何か愛想んない感じを受けてしまいます。まぁ、本当のことは死んでみないとわからないことでしょうけど…。
少なくても南無阿弥陀仏を称えられてきた私たちの先輩方は後生というものがあり、そして浄土に生まれるためにお念仏を称えてこられた事実をなかなか後生というものを信じ切れない現代を生きる私たちは押さえておかなければならないことでしょう。「非科学的だ」「古くさい」という言葉で片付けることはあまりにももったいないと思いますし、先輩方に失礼なことだと思います。
少しぼやき気味になってしまいましたが、私的に考えると後生というのは死後の世界に限定せずに今より後、未来と考えてもよいと思っています。単純に後生があると思えている方はそのままでよいと思いますが…。このままの価値観で大丈夫か?このままの生き方で大丈夫か?このままで本当に未来はよいのかと問いかけていることばが蓮如上人が言われる「後生」という言葉だと理解されてもよいと思っています。後生という後の世を問いながら同時に今現在の私たちの生き方を問いかけていて、どんな未来を求めるのかと問いかけていることばなのではないでしょうか。
<御願い>
報恩講と御正忌法要を当寺で勤めさせていただきますので、
10月30日~11月1日、11月27日は皆様のお宅への月参りは休止します。
報恩講、御正忌法要のお勤めと併せて本堂にてお勤めさせていただきますでの是非とも報恩講、御正忌法要にお参りください。ご理解いただきますよう御願いいたします。
またどうしてもと言われる方は前もってお寺まで電話ください。日の変更など対応させていただきます。
354_御文をいただく 其の六十三五帳目第八通⑦
祠堂経会厳修
二〇二二年六月十九日午前九時三十分より二十日午後四時まで
6月19日(日)
午前の部、並びに祠堂のお勤め
午前9時30分より
尼講のお勤め 午後2時より
午後の部 尼講のお勤めに引き続き
6月20日(月)
午前の部 午前9時30分より
午後の部 午後2時より
(午前の部12時頃、午後の部4時頃終了予定です)
※19日は尼講によるオトキがございます。(予定)
東老田尼講員以外でオトキをご希望の方は実費にてお分けします。6月13日までに住職に申し出てください。
※それぞれのお勤めのあとに法話があります。
法話は両日とも佐賀枝立さん(魚津市栄明寺住職)
がされます
※新型コロナウイルス感染症の拡大状況によって中止を含めて内容を変更する場合があります。(変更の場合は本堂前に張り出します)
※マスクをするなど感染症対策をしてお越しください。
どなた様もお参りできます、お気軽にどうぞ。
皆さんといっしょにお念仏のみ教えを聴聞いたしたいと思っています。
ご近所の方々をお誘いの上お参りください。 お待ちいたしております。
御文をいただく 其の六十三五帳目第八通⑦
御文とは、蓮如上人という今から530年くらい前の方なのですが、その方が私たち門徒に念仏を勧められるために書かれたお手紙です。言葉遣いは昔のものですからちょっと考えないと意味のわからないところや誤解してしまうところがあります。また今の常識の中で生きているものが聞くとあれっ?て思うところがあるのです。特に女性に対する認識は今の価値観にはあわないと思えるところが沢山あります。この御文もその一つです。世の中では「五障三従の女人」と言われているが、とお念仏の目指す社会ではないですが今の社会ではこう思われていると紹介されています。女性は生まれつき五つの障りがあり、だからその時その時によって従って生きていかなくてはならないというのが五障三従という考え方です。今の男女ともに社会参画をしていこうという考え方とは相反するものですね。蓮如上人もこういう社会ではなく念仏してそんな社会ではない浄土に行こうと誘っておられるのですが、今聞くとわざわざ五障三従の女人ということをわざわざわざいう必要がないと感じてしまいます。
でも「五逆、五障・三従の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて、ひたすら後生たすけたまへとたのまん人をば、(中略)みなことごとくもらさずたすけたまふべし」という言葉に救いを感じられた方々も沢山おられたこと事実でしょう。だからこと蓮如上人がおられた頃「女人講」という念仏を基とする信仰集団が沢山結成されたのです。
常入寺では祠堂を常時受け付けています。お寺に寄付することを祠堂といいます。身内が亡くなられたことを縁として祠堂されることが多いです。祠堂をなぜされてきたのかということを考えればそれはひとえに仏教(お釈迦さまの教えが)がいつまでも相続されるように、多くの人にとどくようにという思いからされてきたと思っています。祠堂される方の思いということもあるのでしょうが、それ以上に今亡くなられた人が願われてきたこととして、その思いを受け継いでこられたのでしょう。
いつ祠堂すればよいのですかと聞かれることがありますが、寄付ですので、しなければいけないこともありませんし、いつということも決まってはいません。思い立ったときお寺にお持ちいただければありがたいです。また金額についてもお気持ちをお入れくだされれば結構です。決して多い少ないということはありません。祠堂しようというお気持ちがなによりお寺にとってこの上ない喜びですから。
352_御文をいただく_その62_五帖目第八通⑥
明日ありと 思う心の仇桜 夜半の嵐の 吹かぬものかは
親鸞聖人
この歌は親鸞聖人が詠まれたと伝わるものです。。親鸞聖人は幼くして両親をなくされたたということがあってか9歳の時、仏門に入られる決心をされ、慈信を頼りに京都の青蓮院というお寺の門をくぐられました。僧侶になる儀式である得度をすぐさま受けられようとなさったのですが、いろいろな許可に手間がかかり夕刻までずれこんでしまったようです。ですから慈円さんは「明日の朝になったら得度の式をしてあげましょう」と言われました。しかし、聖人は「明日まで待てません」とおっしゃられ、その時詠まれたのがこの歌と伝わっています。この歌の意味は、「今美しく咲いている桜を、明日も見ることができるだろうと安心していると、夜半に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない」ということですが、親鸞聖人は、自分の命を桜の花に喩え、「明日自分の命があるかどうか分からない、だからこそ今を精一杯大事に生きていきたい」との思いが込められています。
私も最近年をとったせいでしょうか、いつまででも生きられるのが私の人生ではないよな、限りあるいのちをいただいて生きているのだということを忘れずに生きていかなくてはなと、まだまだぼやっとですが思うようになってきました。何が何でも思い立ったら今すぐに動かなければとまでは思いませんが、珍しきいのち、限りあるいのちをいただいて生きているんだと言うことを忘れずに生きていきたいものです。
真宗大谷派(お東)をはじめとする浄土真宗の各派でお坊さんになる式、得度式は親鸞聖人が得度なさっと時に戸を閉め切って真っ暗な状態にして式が執り行われています。
御文をいただく 其の六十二 五帳目第八通⑥ 阿弥陀仏のおこころ
このあたりは南無阿弥陀仏という言葉の解釈をしながら阿弥陀仏の救いやお徳を蓮如上人はお説きになっています。「弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、阿弥陀仏」といわれてます。阿弥陀仏は阿弥陀仏に必ずすくい取ってほしいとたのんでいる人を一人たりとももらすことなくみんなすくいとろうとしておられるのです。阿弥陀仏が私たちをすくい取る基準は本気で救ってとたのむ心だけで後は何も必要としない、その心一つ持ち合わせているのならば阿弥陀仏のお仕事として私たちをすくい取ってくださるのです。私たち救われる側としては容易でありがたい救いであります。
ところで阿弥陀如来は私たちにとって非常に都合のよい救いをなぜご用意くださったのでしょう。そこは一度「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えながら訪ねていかなければいけないところではないでしょうか。「如来大悲」という言葉が参考になるというか手がかりになるような気がしてなりません。
通信350_御文をいただく其の六十一五帳目第八通⑤
御文をいただく其の六十一五帳目第八通⑤_ 南無阿弥陀仏のこころ
この御文には南無阿弥陀仏の南無という言葉の意味として「後生たすけたまえ」とおさえられています。すなわち南無阿弥陀仏とは阿弥陀如来様、後生たすけてくださいと願うことということになります。そういうことでいえば南無阿弥陀仏というのはただただ南無阿弥陀仏といっておればよいというものではなく、たすけてくださいという思いで称えなければならないものということにもなります。
人生を長く生きておれば助けてほしいと思うことは度々あったことでしょう。だけど阿弥陀さんにそういうふうに願ったことは私たちはどれだけあったでしょうか。仲のよい友達にならばまだたすけを求めることがあるかもしれませんが…どうでしょう。
またただたすけてくださいとお願いするのではなく、後生をたすけてくださいとお願いするのが阿弥陀さまなのでしょう。後生というのは後の生ということです。死んで人間のいのちを終えた後ということです。私たちはなにげに簡単に「あの世」といわれるところに行くと思っている方は多いのではないでしょうか。また、死後の世界はないと割り切っておられる方ももしかしたら多いかもしれませんね。仏教では仏に成らなければ永遠に六道輪廻といいまして地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という世界をいのちは生まれ変わっていくと考えてきました。今人間として生きているのですが、その人間としての人生がよいものであればよいところに生まれることができますし、悪ければ悪いところに生まれるのだと考えてきました。そして仏道(仏教)というのはこのような迷いの世界をぐるぐる巡り続けるのではなく、そういう迷いの世界から離れ仏という生き方をしようと説くのです。人間を含めた迷いの世界をこれからも経巡りたいですか?
一度自分の人生を振り返って死後の世界を含めて未来どう生きていきたいかということを考えてみませんか。またお釈迦さまは人や天の世界までもを迷いの世界と捉えられています。皆さんはそのことどう思います?ちょっと立ち止まって考えてみませんか?
彼 岸 会
彼岸は年に2回あります。春彼岸と秋彼岸です。 春彼岸は3月の春分の日を中心とした前後7日間、秋彼岸は9月の秋分の日を中心とした前後7日間のことです。 彼岸の始まりは「彼岸の入り」、最終日を「彼岸明け」、そして彼岸の真ん中にあたる春分・秋分の日を「中日(なかび、ちゅうにち)」と呼びます。その期間に期間に勤める法会を彼岸会といいます。
「彼岸」という言葉は、昔のインド地方の言葉であるサンスクリット語の「パーラミター(波羅蜜多)」が語源です。「向こう岸に至る」という意味があります。ですから彼岸とは私たちが生きる、苦しみに満ちたこの世とは対照的な向こう側の世界、仏教の理想世界とされる悟りの境地や浄土のことです。
春分、秋分の日は昼と夜の時間がほとんど同じ日であり、太陽は真東から登り、真西に沈みます。ですから春分・秋分の日は現世と浄土が最も近くなる日とされています。また西方浄土(彼岸)がどちらにあるかわかる日、私たちが進むべき道がはっきりする日なのです。
お彼岸の日には特に先祖が我が身を使って「あなたも死す身だよ」と私たちに呼びかけてくださっていることを思いだし。限りあるいのちを生きている私はどのように今まで生きてきたのか、これからどのように生きていかないといけないのかそういうことを振り返ったり考えたりすることも大切なのではないでしょうか。
井波別院巡回法座開かれる
綽如上人椅子の御影をお迎えして井波別院巡回法座が2月13日開かれました。お供されてこられた布教使さんは現影顕正さんでした。お話は永六輔さんの「人の死は一度だけでありません。最初の死は医学的に死亡診断書をかかれたとき、でも死者を覚えている限り、その人の心の中で生き続けている」という言葉を紹介されてお話が始まりました。コロナの第6波といわれるものが来襲していて当然ながらお参りいただいた方は多くありませんでした。早くコロナ退散してくれ!そしてみんなが安心してお参りできますように。