391

2月15日はお釈迦さまが亡くなられた日です
お釈迦さまが亡くなられたことを「涅槃に入られた」といいます。「涅槃」とはさとりの境地、苦しみが消滅した状態を意味します。お釈迦さまがこの世でのいのちを終えたことにより、身体的な苦からも脱して完全な「涅槃」に至ったとすることから、お釈迦さまが亡くなられたことを「涅槃」と称しています。またお釈迦さまが亡くなられたことを縁として勤める仏事を涅槃会といいます。富山の涅槃会ではいろんな色の団子、涅槃団子が配られることが多いです。

390

年頭に寄せて
 2025年を迎えました。皆様はいかがお過ごしでしょうか。昨年のように元日早々から大地震は起こってませんよね。今年はあの大騒ぎした2000年から25年が経つそうですね。ついこの間のことのように感じますが、あれから四半世紀経ちました。また昭和でいえば100年にもなるそうですね。本当に月日の経つのが早いですし、たぶん人生なんてあっという間に終わってしまうんでしょうね。俺何をしてたんだ?と、死んだとき思いたくはないですが、たぶんそう思ってしまうんだろうなという想像もつきます。本当にそう思っているのならば何らかの歩みだしがあるのでしょうが‥。口だけで本気で思っているわけでもないのが現状です。それが一番の私の問題なのでしょう。
 昨年はやはり地震の怖さ、いや自然の怖さをしっかり思い知らされ、能登の人たちに思いを寄せた一年だったと振り返ることができます。昨年を、これまでの人生を糧にして新たな一年を歩んでいかないといけませんね。

 皆様方も良い一年を、良い一生をお過ごしください。良いということは吟味ないといけないですがね。
2025年乙巳正月
住職

380 御文をいただく 其の六十八五帳目第九通④

御文をいただく 其の六十八五帳目第九通④_たすけましますという事が本当にわからない

 浄土真宗の教えとは阿弥陀如来様のお救いを信じ南無阿弥陀仏と念仏申す生活をする教えですが、だけど、この私を阿弥陀如来様がたすけてくださいますよといわれてもなかなかピンとことないのも本当のところなのではないでしょうか。そう感じているのは私一人だけなのでしょうか。はてさて…
 阿弥陀如来様の救いがピンとこないということは自分が阿弥陀如来様に救ってもらわなくてはならない身であるという事に頷けていないからなのでしょうね。 
 仏様の救い以前に誰かのお世話になるという事があまり好きでないし、自分ひとりでなんとかやっていけると思ってしまっている自分がいるからなのでしょうね。お金さえあれば何でも買えますし、何でも済んでしまうのがこの世の中ですもんね。誰かに助けてもらわないとやっていけないなんてあんまり感じられないかもしれません。
 念仏を大切にされてきた先輩方は「おかげさま」と思いながら生活をしてそしてそのなかでお念仏を称えてこられたように思います。また、自分を信じて、自分の価値観だけを信じて生きていっても本当に幸せになれるんでしょうか。私はなんとなくですが、そうではないような気がしています。何か大きな誤解をして生活をしているのが私たちなのかも知れません。
 阿弥陀如来様が私を救ってくださるのだと狂信的に信じていく前に阿弥陀如来様の救いがなぜ今まで残ってきたのかという事を私ごととして、私を見つめ直す事をとおして訪ねていく事も大切なのではないでしょうか。

仏教はわかる教えではありませんなるほどその通りとうなづく教えです

 親鸞聖人は主著である顕真実教行証文類の中で善導大師のお言葉を引用されて仏教の学び方についてお示しくださっています。一つには「解学」これはわかるようになることを目的とした学び方です。経典などを読んだり理解する学びであります。いわば私たちが思う勉強です。そしてもう一つ、仏教の学びとして「行学」というあり方です。日々の生活の中で仏教を確かめ自分の生きる道をあきらかにしていく学びのことです。この二つの学びはこれがよくてこれはだめだというのでは決してありません。知識を身につける学び解学も大切です。ただこの学びで終わってしまうことがもったいないことなのです。次のステップがあるというか、解学と共に行学をしていくことが大事なのです。解学で終わらせてしまうことがもったいないことなのです。
 そもそも仏教というのはお釈迦様が私たちにされたお説教が基です。その教えに生きていくことが仏教です。他人ごととしてこんな生き方があるんだと聞いていくのではなく、私ごととして自分の生き方として学んでいくことが肝要なことでしょう。言い換えればお釈迦様は何でこんなことをおっしゃっておられたんだろうかということを私の人生を振り返りながら確かめて行く事が大事な仏教の学びなのでしょう。

379

4月8日はお釈迦さまのお生まれにならられた日「花祭り」を催しお祝いする日です

 4月8日は、お釈迦さまのお誕生をお祝いする「花まつり」の日です。花まつりは、仏教寺院だけでなく、多くの仏教系の幼稚園や保育園、学校などで広く行われています。皆様方も各家庭でお祝いのケーキなどを食べてお祝いしませんか。
 お釈迦さまは、今からおよそ2500年前、現在のインド国境に近いネパールの地、ルンビニーの花園でお生まれになりました。お釈迦さまの誕生日のお祝いを「花まつり」というのはこのためです。
 シャカ族の王子としてお生まれになったお釈迦さまは、「ゴータマ・シッダールタ」と名づけられました。お生まれになってすぐに7歩進み、右手で天を、左手で地を指差し「天上天下唯我独尊」と宣言されたと伝えられています。これをいろんな事を飛ばして極端に訳するならば、私たち一人ひとりかけがえのない尊いいのちをお借りして生きているんだとなります。またお釈迦様ががお生まれになったとき、そのことを祝った竜王が甘露の雨、すなわち甘い雨を降らせたとも伝えられています。ですからそのことを模して花まつりの時お釈迦さまに甘茶をおかけするのです。
 思いを巡らせれば、私達は皆、お釈迦さまと同じように、誰にもかわることの出来ない、かけがえのない「いのち」を生きている事に気づくことでしょう。人類が誕生して以来、数え切れないほどの人々が生き、また現在、数十億の人々が共に存在しているなかで、誰一人として「わたし」と同じように生き、悩み、考え、行動する人はいないのです。人生を変わってくれる人もいません。またみんなかけがえのない「いのち」をいただいて生きているのです。しかしいつの間にか人と比べ優劣をつけ喜んだり落ち込んだりしてしまっています。世界を見渡せば今どこかで正義の名の下で殺し合いが繰り返されているのです。本当に悲しむべきことです。
 4月8日は、お釈迦さまの誕生をお祝いすると同時に、それぞれの「かけがえのないいのちの尊さ」に眼を向け、正しく生きることをお誓いする日にしたいものです。世界人類が違いを認め合いながら尊いいのちを生きる仲間として生きなければならないことに気づく日にしたいものです。

373_報恩講案内号

報恩講厳修
十月三十一日午後一時三十分より十一月一日午後三時まで
報恩講とは私たちの宗祖親鸞聖人のご命日を縁として勤められる年間行事の中で一番大切な仏事です。いわば親鸞聖人のご法事とも言えるものです。
報恩講では皆さんのお念仏の声をそして親鸞聖人のみ教えを共に聞いていきましょう

日  程
10月31日(火)   午後1時30分より 午後のおつとめ
11月  1 日(水) 午前9時30分より 午前のおつとめ
午後1時30分より まとめのおつとめ
勤めの後に毎回お説教があります。
お話しくださるのは 松井 勇さん(南砺市)です。

御文をいただく 其の六十七五帳目第九通③_雑行を棄てて本願に帰す
 これは親鸞聖人の信仰告白ともいえる文章です。この言葉を聞くと思い出す言葉があります。それは九月までやっていたNHKの連続テレビ小説「らんまん」で松坂慶子さんが演じた槙野タキさんが主人公の万太郎に発した言葉「何かを得るということは何かをすてるという事じゃ」という言葉です。
 親鸞聖人は本願に帰すと自分の生き方をあきらかにされるわけです。その信仰告白の言葉に伴って雑行を棄ててという言葉を付け加えられているのです。雑行というのは阿弥陀如来様が建てられた本願に基づかない行いです。本願に帰すということと雑行を棄てるということが同時性をもって語られています。一つの事を二つの側面から表していると言ってもよいのかもしれません。本願に帰するということは雑行を棄てるということなのだという意味も含んでいるのでしょう。
 これもあれも選び取っていくというのは選びではなく、何かを選び取っていくということは何かと決別していくということなのではないでしょうか。今の私たちの生活はこれとは違って、あれもこれもと抱え込んでいって結局、身動きのとれないようになっていってしまう生き方をしていることもこの言葉から教えられているのではないでしょうか。


372_ 初めまして春じゃのぅ、同じ春は二度とない


 私はいわゆるテレビっ子です。家にいるといつもテレビを見ています。見ていなくてもテレビがついています。テレビとともに生きていると言っても過言ではないかもしれません。(笑)テレビを見ていると、はっとさせられることがあります。その一つが今月の言葉としてご紹介している言葉、「初めての春じゃ、同じ春は二度とない」という言葉です。これはNHKの連続テレビ小説「らんまん」聞き取った言葉です。この言葉を受けて「初めての報恩講です。同じ報恩講は二度とない。」このような言葉を発したくなっています。今報恩講に向けて少しずつ準備をしているからでしょうか。
 皆さんはこの世に生をうけ何回目の秋を迎えられているでしょうか。その中で同じ秋はなかったはずです。毎年何かが違っていたのではないでしょうか。そういう意味で同じ秋はないのです。また秋とはこういうものだという思いで秋を過ごしてしまうと、いつもと違う秋と出会うことが難しくなるかも知れませんね。何事も初事として出会っていく事が大事だといえることでしょう。
 さて当寺の報恩講も本年も勤めさせていただきます。皆様にとっては何回目の報恩講の案内でしょうか。報恩講も毎年勤めさせていただいていますが、今まで同じものはありません。報恩講の中でいろんな出会いや気づきがあります。毎年同じ内容ですが、私の受け取りは毎年違うものがあります。
 皆さん方も是非当寺の報恩講にお参りください。その中で懐かしさに出会ったり、新たな気づきをもたらしてくださるかもしれません。初事としてお参りください。おまちいたしております。

370_一切の聖教といふもただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり


一切の聖教といふもただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり

 仏教でお経といわれるものはお釈迦さまが説かれたお説教が書きとどめられているものを指します。厳密に言うならば正信偈は親鸞聖人がお作りになられたうたですのでお経とは言いません。でも、諸先輩方のお書きになられたものも含めてお経と言ってきた文化もたしかにあったので一概にそれは間違いであるともいえません。少なくても仏教の肝要を記されているものをお経と言ってきたのでしょう。
 この世の中に異訳本を含めると八万四千のお経があるといわれています。私はそれをすべて見たこともありませんし、数えたこともありません。ただいえることはお経は誰かのためにあるのではなく、すべて私のために(皆様方一人ひとりにために)あるのです。私一人のためにお説きくださったのがお釈迦ですし、未来永劫の人々にお釈迦様の教えが伝わるよう願われて多くの方々がお経を編纂なされたり、翻訳されてきたのです。いわばお経とは私たちが成仏するための、言い換えれば仏となるための指南書です。お経にどんな力があるのか私にはわかりかねますが、不可思議な力を求めるためにお経を使うというより、本来的な意味で利用する方がお釈迦様はお喜びになられるのではないかと私は思っています。
 蓮如上人はそのお経について「一切の聖教といふも
ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり」と御文の中にお書きになられています。お経というのは南無阿弥陀仏という六字の名号を信じさせるためにあるのだと、きっぱりおっしゃっておられます。飛躍して訳しますとお釈迦さまが一番お説きになられたかったことは念仏を信じ称えさせるためにあるのだと。やっぱりここまで言うと言い過ぎですね。少なくても私たち念仏を称えるもののお経との付き合い方を示されているのだと思います。お経というのは誰かのために、先祖のために読むものではなくて私のために読んでいかなければならないものなのでしょう。なぜ南無阿弥陀仏の救いを阿弥陀如来がわざわざお作りになられたのか。お経を鏡として我が身を知り、阿弥陀如来の大悲のいわれに頷いていくことが大切なことなのではないでしょうか。

369_多様性が担保されたということは正解が一つじゃなくなったということ

多様性が担保されたということは正解が一つじゃなくなったということ
 「多様性」ということをよく聞くようになりずいぶんとたっているような気がする。25年前、東本願寺で蓮如上人五百回御遠忌法要の教化テーマが「バラバラでいっしょ~差異を認める世界の発見~」であったと記憶している。これも多様性を認めていこうという方向のものだろう。
 今、外を歩いていてもいろんな言語が聞こえてくる。中国語っぽいもの、タイ語っぽいもの、もしかしたらベトナム語っていうのも。こんな田舎までいろんな国がおられるのが事実。もう多様性の社会になっていると言ってもいいのかもしれない。でも私たちの生活は何も変わらないし、価値観も変わらない。そして自分と異なるものに対してなんとなく拒否反応を起こしてしまっている。日本語でない言語を聞くとなんとなくびっくりする。何を言っているのかわからないということもあるのだろうけど。
 自分と違う言語の人がいるということは違う文化を持っている人がいるということ。いろんな価値観を持った人たちが一緒に暮らしているということ。いろんな価値観を持った人がいるということはいろんな正解を持った人がいるということであると思う。それを認めていくことが大事あり、そしてこれが一番難しい。
 日本人というひとくくりの中でもみんな同じ価値観を持っているのだろうか。いやそうではなくて一人ひとりの人生の中でそれぞれいろんな経験もしてきている。そのなかでそれぞれの価値観を持ち、それぞれの正解を持って生きているのではないだろうか。
 そしてそのところで何度かみんな苦しんでいるはずだ。皆さんも誰も自分を認めてくれないと嘆いたことはなかっただろうか。
 いろんな正解がこの世にあるのだと認識することから多様性社会を私たちが作っていく事ができるのだろうし、一人ひとりを認め尊敬することができるようになっていくのではなかろうか。

368_祠堂経会案内号_御文をいただく 其の六十七五帳目第九通③


御文をいただく 其の六十七 五帳目第九通③

 親鸞聖人がお作りになられた正信偈は「帰命無量寿如来 南無不可思議光」という言葉から始まります。実はどちらも南無阿弥陀仏ということです。親鸞聖人なりに言い直されたことばといえると思います。南無という言葉と帰命という言葉は同じ意味です。南無というのは元々むかしのインドの言葉です。そのインドの言葉の発音を漢字で書き表したのが南無となります。また意味から漢字で表したのが帰命になります。どちらも元々古いインドの言葉ナマスから来ているのです。
 余談ですが、今インドやネパールで交わらされる挨拶の言葉はナマステと言うそうです。あったときだけではなく別れの時も。ナマステはナマスとテに分解できるそうです。ナマスは敬礼・服従するという意味で、テは「あなたに」の意味です。意味からするとあなたを尊敬しますとなります。こういう意味の言葉が挨拶の言葉として使われていることに驚きというか頭がさがる思いがします。
 ナマステのところで書きましたようにナマスとは敬礼・従服を意味する言葉です。帰命という言葉も漢字を見ただけではなかなか意味のわかる言葉ではありませんが、南無と同じ、頭が下がります、という意味になります。ですから南無阿弥陀仏というのは阿弥陀仏に帰依するという意味があるのです。   (つづく)

366_御文をいただく 其の六十六五帳目第九通②


御文をいただく 其の六十六五帳目第九通②
《現代語試訳》
浄土真宗でいう心の安らぎとは、ただ「南無阿弥陀仏」の六字のこころに頷けたときです。六字の心ということを具体的に言えば私たちが南無阿弥陀仏と帰命するならば、やがて阿弥陀仏がたすけてくださるこころと言うことです。

 宗教とはある意味で生きていく中での安らぎを与えるものでしょう。その安らぎを浄土真宗では、ただ一つ南無阿弥陀仏のこころを、理解することと。ここではの述べておらられています。
 言葉を付け加えるならば今わたしが聞いたり称えたりしている南無阿弥陀仏という念仏は私を今救うがために阿弥陀如来様からお運びくださっているのだという事実に頷きそしてそれが安らぎとなるのです。
 念仏を称えてこられた先輩方が「信心」「安心」といっておられたのがこのことです。他人ごとで文章の意味からしたら難しいことではありませんが、私ごととして考えていくとわからなくなってきますね。阿弥陀さまからいただいた念仏と言われてもピンとこないのも確かなことでしょう。しかし他人ごとでも浄土真宗の教えを聞き続けていく中でやがて頷けるときもくるのではないかとも思います。阿弥陀差様がこんな私たちにもで私たちのために念仏と念仏を称える心を運んでくださっていいるのですから。そしてそのことを他力とおっしゃってこられたのでしょう。
 

364 御文をいただく  御文をいただく 其の六十五 五帳目第九通①

彼岸会
 彼岸は年に2回あります。春彼岸と秋彼岸です。 春彼岸は3月の春分の日を中心とした前後7日間、秋彼岸は9月の秋分の日を中心とした前後7日間のことです。 彼岸の始まりは「彼岸の入り」、最終日を「彼岸明け」、そして彼岸の真ん中にあたる春分・秋分の日を「中日(なかび、ちゅうにち)」と呼びます。その期間に勤める法会を彼岸会といいます。
 「彼岸」という言葉は、昔のインド地方の言葉であるサンスクリット語の「パーラミター(波羅蜜多)」が語源です。「向こう岸に至る」という意味があります。ですから彼岸とは私たちが今生きる、苦しみに満ちたこの世とは対照的な向こう側の世界、仏教の理想世界とされる悟りの境地や浄土のことです。
 春分、秋分の日は昼と夜の時間がほとんど同じ日であり、太陽は真東から登り、真西に沈みます。ですから春分・秋分の日は現世と浄土が最も近くなる日とされています。また西方浄土(彼岸)がどちらにあるかわかる日、私たちが進むべき道がはっきりする日なのです。
 お彼岸の日にはお墓参りをしたりして先祖偲びます。また先祖が私(たち)に「あなたも死す身だよ」と私たちに呼びかけてくださっていることに気づいていくことが大切でしょう。限りあるいのちをいただき、今を生きている私はどのように今まで生きてきたのか、だからこれからどのようにこれから生きていかないといけないのか、そういうことを振り返ったり考えたりすることもお彼岸の大切な過ごし方なのではないでしょうか。
 常入寺では毎年、城端別院の巡回法座と併せて彼岸会を勤めさせていただいています。よろしければ是非お参りいただきお説教を聴聞いただきたく思います。本堂を暖かくしてお待ちいたしております。

御文をいただく 其の六十五 五帳目第九通①
 私たちの浄土真宗の教えは南無阿弥陀仏と称えて浄土往生を願い生きていくというものです。しかし私たちの先輩方はただ南無阿弥陀仏と声に出して称えていれば済むものでもないとよくおっしゃいます、安心・信心が大切なのだと。この御文でも「当流の安心の一義といふはただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり」と書かれています。安心とは安心する心、信ずる心を意味します。浄土真宗での安らぎの境地とは、ただ南無阿弥陀仏の六字に込められた阿弥陀如来のお心にうなづいていくことですと書きとどめられています。私が今不思議にも称えさせていただいている南無阿弥陀仏というお念仏が、なぜ私のところにやってきたのか、なぜ私が称えてしまっているのか、そういうことを尋ねていくことが大切ですよとおっしゃっておられるのでしょう。

363

2月15日はお釈迦さまが亡くなられた日です

お釈迦さまが亡くなられたことを「涅槃に入られた」といいます。「涅槃」とはさとりの境地、苦しみが消滅した状態を意味します。お釈迦さまがこの世でのいのちを終えたことにより、身体的な苦からも脱して完全な「涅槃」に至ったとすることから、お釈迦さまが亡くなられたことを「涅槃」と称しています。
お釈迦さまは紀元前5世紀ごろルンビニ(ネパールとインドの国境付近)で生まれ、やがて人生の無常を憂い出家されます。そして35歳でさとりを得ます。以後、各地を巡り、煩悩が引きおこす苦しみから逃れ、安らぎを得るという教えを人々に授けました。伝道の旅は、80歳で亡くなられる寸前まで続き、2月15日、旧暦の15日ですから満月の日にお釈迦さまはお亡くなりに成られたと言い伝えられています。お釈迦さまは自分の死が近いことを察しられ弟子たちにこのように説かれました。
「私の亡きあとは、私ではなく自分自身をより所として、また私が伝えた教えを、闇を照らすともしびとして、歩んでゆきなさい」
お釈迦さまは個人崇拝の対象となることを否定され、弟子一人ひとりが確かに、自立して進むことを求めたのでした。
そして
「もろもろの存在は変わりゆく。怠らず精進しなさい。」
という最期の言葉を残し、静かに息をひきとったのでした。
お釈迦さまのご命日を縁として勤めます涅槃会は全国各地で勤められます。また富山ではお釈迦さまのご遺骨を模したものとして4色で彩られた涅槃団子が配られることが多いです。

通信362

年頭の寄せて
 2023年という新しい年を迎えました。常入寺有縁の皆様方、どうぞ昨年同様本年ももよろしくお願いいたします。
 昨年当初よりロシアがウクライナに侵攻し戦争状態になり、今も続いています。早く戦闘状態は終わらないかな、せめて休戦してくれないかなと思うばかりです。またその影響なのか世界中で物価高になっているようで日本においてもいろんなものが値上がりしてしまってますね。まだまだ値上げラッシュがつづくようです。特に四月からの電気料金値上げは本当に頭を抱えてしまいます。昨年のことに戻りますが、昨年夏の参議院選挙まっただ中に安倍晋三元首相が銃撃され亡くなってしまったというニュースも衝撃的でした。また殺害の理由が旧統一教会への恨みであったというのがまた驚きでした。思い起こしてみれば昨年は印象に残る事件・出来事がいくつかあり、今年の冬に北京でオリンピックが開催されていたことが遠い昔の出来事になってしまっているのが私の現状です。こういうことがあってか是非今年は平穏な日々を過ごせますようにと祈るばかりです。

世のなか安穏なれ
仏法ひろまれ
親鸞聖人

通信361

 皆さん、今月8日は私たちの教主釈迦牟尼仏がお悟りを開かれた日ということをご存じでしょうか?よろしければ覚えておいてください。
 今から約2500年前、インドの北、現在のネパールの地で、釈迦族の王の子としてお生まれになられたお釈迦様は、29歳の時に世の無常を感じて、約束されていた国王の座や妻子を捨てて出家をされました。6年もの間、厳しい苦行を続けられましたが、苦行をすることでは真理を見いだせないとお気づきになられ苦行をすることをおやめになられました。その後、苦行をされた近くの村でスジャータという娘さんより施された乳粥によって、苦行で疲れ切った身体を癒されました。その後近くにあった菩提樹という木の下で瞑想ををはじめられ、そして12月8日の早朝、暁の明星の輝きとともに、お釈迦様はついにお悟りをお開きになられれたのです。つまり、12月8日はは仏教の教えが生まれた大切な日を意味するのです。
 さてお釈迦さまのお悟りとはどういうものだったのでしょう。しかしこのことを知り納得できたならば仏様となることができます。ですからそう簡単に私たちが理解することは不可能でしょう。しかし方向性のようなものならば私たちは理解できるかもしれません。このことを知るためにはどうしてお釈迦さまが王様になる約束と家族を捨て出家なさったのかということを訪ねていくべきなのでしょう。なぜ出家なさったのかということを知る手がかりとして「四門出遊」という話しが伝えられていると思います。四門出遊の話というのは以下のものです。
 今から約2500年前のインドにお生まれになられたお釈迦様はお母様と産後まもなく死別されたということがあってかいろんな事に敏感になりよく物思いにふけられていたそうです。そのことを心配されてか父である王様は美味しい食べ物毎日与えられたり、楽しいイベントを催されたりしてあまり物思いにふけないように心がけれられ育てられました。ある時、お城の外の暮らしもどんなものか見てみたいと思ったお釈迦様は、家来を連れて、お城の東西南北4つの門から出かけることにしました。東の城門を出られたお釈迦様は、道に、歯がおち腰はまがり杖にたよって歩く老人の姿をご覧になられました。その枯れ木のような老人の姿を見て、人間、誰しもがやがて必ず、あのように老いていかねばならないと、老いの苦しみを痛感されたのです。またある日、南門を出たとき、病人を見られ、人は病むという病苦の現実を深く実感されました。そして西門を出られたときに、葬式の行列を見られました。先ほどまで元気だった人が、青白くなって、もう動かなくなる。そして、焼かれてひとつまみの白骨になってしまう。人は必ず死んでいかねばならない。やがて死ぬのになぜ生きるのだろうか。人間は必ず死んでいくという、死苦の現実をまざまざと知られたのです。最後に北門を出られたとき、出家した僧侶を見て、人間は限りあるいのちを、自分の欲を満たすために生きるのではなく、老いや病や死を超えたなにか普遍的な真理を求めるために生きているのではないだろうか。私も、老いても病んでも、そしていざ死ぬとなっても崩れない本当の幸せになりたい、と、真実の幸福を求める気持ちは日に日に強くなっていかれたのです。これが四門出遊の話です。
 お釈迦様は老・病・死、そして生という人間の避けることのできない苦を見抜かれ、その苦から解放されることを願い出家されたのです。

通信360

御  礼
10月31より11月1日まで当寺報恩講を勤めさせていただいたところ、コロナ下で感染の危険性がある中、またお忙しい中ご都合をつけてお参りをいただき、そして厚いご懇念をお運びいただき誠にありがとうございました。心より感謝申し上げます。
お運びいただきました御懇志金は大切に常入寺の維持管理、そして運営のために使わせていただきます。今後とも常入寺維持運営にご協力いただきたくお願い申し上げます。
常入寺住職 青井和成

御正忌法要
11月27日(日)午前10時より午後3時30分まで
おしっちゃはんとは東本願寺でつとまる御正忌報恩講(8日間勤められる宗祖親鸞聖人のご法事)にあわせて勤める仏事です。

御正忌のお勤め 午前10時より
尼講追悼会   午後2時より

 ☆法話は住職が行います。
 ☆尼講員でない方で昼食が必要な方は24日まで住職まで申し込みください、実費にてお分けします

359 報恩講案内号_御文をいただく五帖目第八通⑧

報恩講厳修
十月三十一日午後二時より十一月一日午後三時まで
報恩講ではお念仏の声を共に聞いていきましょう
日  程
10月31日(月)   午後2時より 午後のおつとめ
11月1日(火) 午前9時30分より 午前のおつとめ
      午後1時30分より まとめのおつとめ
お説教は各と勤めの後にあります。
お話しくださるのは 松井 勇さん(南砺市)です。
※例年のごとく1日にオトキを用意しています。しかし、感染症拡散予防のためオトキは持ち帰り用の弁当とし、遠方の方以外はご自宅で召し上がっていただきます。(予定)
※お参りの際にはマスク着用にてお参りください。

御文をいただく 其の六十四五帳目第八通⑧
後生って何?
 この蓮如上人がお作りになられた御文には「後生」という言葉が度々出てきます。私の読む限り重要なキーワードとして扱われているように思えます。単純に意味を訪ねていけば後の生ということですから、死んだ後のことと言うことでしょう。今、現代においてなかなか死んだ後と問われてもピンとこない人が多いのではないだろうかと感じてます。それは「死んだ後の世界なんてないよ!」「今しかないんだよ。」とお答えになられる方が多いようにお見受けします。それと関係しているようにみうけれれます。
 今を大事に生きるということでは大切な考え方だと思います。しかし次の生がないと考えるのも何か愛想んない感じを受けてしまいます。まぁ、本当のことは死んでみないとわからないことでしょうけど…。
 少なくても南無阿弥陀仏を称えられてきた私たちの先輩方は後生というものがあり、そして浄土に生まれるためにお念仏を称えてこられた事実をなかなか後生というものを信じ切れない現代を生きる私たちは押さえておかなければならないことでしょう。「非科学的だ」「古くさい」という言葉で片付けることはあまりにももったいないと思いますし、先輩方に失礼なことだと思います。
 少しぼやき気味になってしまいましたが、私的に考えると後生というのは死後の世界に限定せずに今より後、未来と考えてもよいと思っています。単純に後生があると思えている方はそのままでよいと思いますが…。このままの価値観で大丈夫か?このままの生き方で大丈夫か?このままで本当に未来はよいのかと問いかけていることばが蓮如上人が言われる「後生」という言葉だと理解されてもよいと思っています。後生という後の世を問いながら同時に今現在の私たちの生き方を問いかけていて、どんな未来を求めるのかと問いかけていることばなのではないでしょうか。

<御願い>
報恩講と御正忌法要を当寺で勤めさせていただきますので、
10月30日~11月1日、11月27日は皆様のお宅への月参りは休止します。
報恩講、御正忌法要のお勤めと併せて本堂にてお勤めさせていただきますでの是非とも報恩講、御正忌法要にお参りください。ご理解いただきますよう御願いいたします。 
またどうしてもと言われる方は前もってお寺まで電話ください。日の変更など対応させていただきます。