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今月のことば 殺してはいけない殺されてはいけない

 仏教徒の生活規範である戒の一番最初に殺生戒というものがあります。これは生きとし生けるものを殺してはなりません、というものです。ごくごく当たり前のことだと感じている方は多いかもしれません。しかしよく考えると結構難しいこと、いや不可能なことと気づかれることでしょう。私たちは食事を食べるということは、いのちをいただいているということだからです。ところでなぜお釈迦さまは私たちに生きとし生けるものを殺してはならないという決して守ることのできない生活規範を定められたのでしょうか。
 私はその問いに答えるものを持ち得ていません。本当にわかりません。しかし私たちは動植物を殺し続けなければ生きていけないから仕方のないことだとも思えません。大切なことだけど守れないというように感じでいます。こういうふうに思っていると殺生戒は決して守ることはできないがせめて食事は精進料理にしようとか、せめて人を殺さないようにしようとかというふうに展開していくのではないでしょうか。
 さて、今お釈迦さまから私たちは、生きとし生けるものを殺すなと、とてつもなく大きな宿題をもらっているわけです、皆さんはどんな応えをだしますか?正しい答えを出すということよりも一人お一人がそれぞれ考え実行することが大切だと私は思っています。

341御文をいただく其の五九五帳目第八通③

阿弥陀如来はなぜ私たちを容易に極楽に生まれさせようとなさったのか

 阿弥陀如来様は元々仏という存在であったわけではありません。法蔵菩薩という名前の菩薩様でありました。その法蔵菩薩であられた頃、仏になる修行をなさるわけです。ただ仏になればよいという考えで修行をなさっておられたわけではなく、どんな人でもすくいとる仏になりたいと思っておられました。そして法蔵菩薩は他の仏様に認められ阿弥陀仏という仏様になられました。仏になられてもあらゆる人をすくい取りたいという思いはなくなっていませんでした。
 才能があったり努力が持続する方ならば、阿弥陀さまがなされたような仏になる修行をその人に教えても達成することはできるでしょうが、才能がなかったり、修行をしたくてもできない環境の方はそうは行きません。ですから阿弥陀如来様は厳しい修行を求めたのではなく、ただ救われたいという気持ちを持ち続けなさい、そうするといつか必ず浄土(極楽)という世界に生まれさせてやり、その国で身も心もきよらかにして、やがて仏とならし」めてあげようと誓われたのです。
 阿弥陀さまは私たちにご褒美として容易に極楽に生まれさせようとなさったのではなく、私たちを見てこういう私たちには容易な道しか無理だと思いわざわざ念仏往生の道をお建てになられたのです。いわば大いなる悲しみから発った救いの道なのです。
 私の身が明らかなればなるほど、自分の愚かさが身にしみれば身にしみるほど私たちは阿弥陀さまのご苦労が理解できるのではないでしょうが、また阿弥陀さまの救いのありがたさに頷くことができるのではないでしょうか。私たちの先祖をはじめとする念仏を称えてこられた方々は本当に念仏を称えながら自分の元にまで届いた念仏をありがたく思われていたことでしょう。

2021年祠堂経会を勤めさせてもらいました

6月13日より14日まで祠堂経会を勤めさせてもらいました。当初は1日2座合計4座勤めさせていただく予定でしたが、新型コロナウイルス感染症にかかった人が県内で増大していたため規模を縮小させていただきました。

開催日前日まで、感染症拡大に伴う警報が発出されていたので参詣者も招き入れずに勤めないといけないかなとも思っていましたが、それは何とか回避出来ました。またお説教も当初お客僧さんを招いてしていただく予定でしたが、変更して住職がさせてもらうことにしました、

読経もマスクをしてでしたので、息が足りずゆっくりと勤め少々時間がかかりました、反対にそれが良かったという声もいただきました。

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仏教は悩みが消える道ではなく安心して悩める道である

 皆さんにとって仏教とはなんでしょう?いきなり唐突なことを皆さんに聞きますが、みなさんはどう考えられますか?
 仏教は成仏道ともいいます。仏になる道です。そう言う意味で多くの方は誰かを仏にさせてあげる道と考えておられるでしょう。それは全くの間違えではありませんが、誰かをほとけさんにさせるのは私たちの仕事ではなく、仏様の仕事です。ですから私たちが仏になってからそういうことができるのでしょう、多分。仏になるのは「私」です。私が仏になるための道を歩んでいくのが仏教なのです。
 仏道を歩み続けるには仏様に成りたいという気持ちをもちづづけることが必要です。その気持ちを忘れたりなくしてしまうと、歩みが止まったり、全然違う道を歩んでしまいます。仏道を歩み続けられた先輩方の話を伺うとこの心を持ちづづけることが本当に難しいとおっしゃいます。
 仏になりたいということは自分は仏ではないということを知ることと、そのことがどんなに悲しいことなのか知ることなのです。この悲しみによってずっと仏道を歩み続けることができるのでしょう。ある意味悲しみこと、悩み続けることが仏道を歩むともいえるのかもしれません。
 今回今月のことばとして「仏教は悩みが消える道ではなく、安心して悩める道である」という言葉をえらびました。これはインター寝とをうろうろしていたらともだちがお寺の掲示板に貼った言葉として見つけたものです。
 悩みがなくなったり消えたりするのは仏様になってからのことです。ずっとやや身は消えませんし、悩み続けなければなりません。我が身を振り返ればその仏になるのはいつのことやらと思ってしまいます。いやになるかもしれません。しかし悩むということは仏道を編み見続けている証でもあり、人間として生きている証でもあるのです。いわば悩むこと、悲しむことが私たち人間の宝物なのです。 
安心して悩みましょ。

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御文をいただく 其の五八五帳目第八通② 南無阿弥陀仏という仏様

 阿弥陀如来様のおはたらきは、ふたごころなく念仏を称えとなえたものを浄土に生まれさせ、やがて仏になさしめてくださるというものです。しかしそれだけではなく、私に念仏をなんとか称えさせようと、私のまわりで念仏の声をいろんな方のすがたを借りて響き渡らせてくださったり、その他いろんな私にはたらきかけをくださったりしていただいているのです。これも阿弥陀さまの大事なおはたらきです。阿弥陀さまが南無阿弥陀仏という言葉となって今までそしてこれからも現れてくださるのです。時たまでもたまたまでも念仏が称えられているのは阿弥陀さまのおかけです。まだ念仏が一言も称えることができない人にも阿弥陀さまははたらき続けられています。
 そのために阿弥陀さまはとてつもない長い間修行をされ、長い間考え抜かれて本願という仏になる誓いを建てられ他の多くの仏様から仏と認められたのです。
 私たちは阿弥陀さまのおはたらきがあってやっとここまでできるようになったのです。仏になる道を不思議にも歩もうとしているのです。