一切の聖教といふもただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり
仏教でお経といわれるものはお釈迦さまが説かれたお説教が書きとどめられているものを指します。厳密に言うならば正信偈は親鸞聖人がお作りになられたうたですのでお経とは言いません。でも、諸先輩方のお書きになられたものも含めてお経と言ってきた文化もたしかにあったので一概にそれは間違いであるともいえません。少なくても仏教の肝要を記されているものをお経と言ってきたのでしょう。
この世の中に異訳本を含めると八万四千のお経があるといわれています。私はそれをすべて見たこともありませんし、数えたこともありません。ただいえることはお経は誰かのためにあるのではなく、すべて私のために(皆様方一人ひとりにために)あるのです。私一人のためにお説きくださったのがお釈迦ですし、未来永劫の人々にお釈迦様の教えが伝わるよう願われて多くの方々がお経を編纂なされたり、翻訳されてきたのです。いわばお経とは私たちが成仏するための、言い換えれば仏となるための指南書です。お経にどんな力があるのか私にはわかりかねますが、不可思議な力を求めるためにお経を使うというより、本来的な意味で利用する方がお釈迦様はお喜びになられるのではないかと私は思っています。
蓮如上人はそのお経について「一切の聖教といふも
ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり」と御文の中にお書きになられています。お経というのは南無阿弥陀仏という六字の名号を信じさせるためにあるのだと、きっぱりおっしゃっておられます。飛躍して訳しますとお釈迦さまが一番お説きになられたかったことは念仏を信じ称えさせるためにあるのだと。やっぱりここまで言うと言い過ぎですね。少なくても私たち念仏を称えるもののお経との付き合い方を示されているのだと思います。お経というのは誰かのために、先祖のために読むものではなくて私のために読んでいかなければならないものなのでしょう。なぜ南無阿弥陀仏の救いを阿弥陀如来がわざわざお作りになられたのか。お経を鏡として我が身を知り、阿弥陀如来の大悲のいわれに頷いていくことが大切なことなのではないでしょうか。