352_御文をいただく_その62_五帖目第八通⑥

明日ありと 思う心の仇桜 夜半の嵐の 吹かぬものかは
親鸞聖人

 この歌は親鸞聖人が詠まれたと伝わるものです。。親鸞聖人は幼くして両親をなくされたたということがあってか9歳の時、仏門に入られる決心をされ、慈信を頼りに京都の青蓮院というお寺の門をくぐられました。僧侶になる儀式である得度をすぐさま受けられようとなさったのですが、いろいろな許可に手間がかかり夕刻までずれこんでしまったようです。ですから慈円さんは「明日の朝になったら得度の式をしてあげましょう」と言われました。しかし、聖人は「明日まで待てません」とおっしゃられ、その時詠まれたのがこの歌と伝わっています。この歌の意味は、「今美しく咲いている桜を、明日も見ることができるだろうと安心していると、夜半に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない」ということですが、親鸞聖人は、自分の命を桜の花に喩え、「明日自分の命があるかどうか分からない、だからこそ今を精一杯大事に生きていきたい」との思いが込められています。
 私も最近年をとったせいでしょうか、いつまででも生きられるのが私の人生ではないよな、限りあるいのちをいただいて生きているのだということを忘れずに生きていかなくてはなと、まだまだぼやっとですが思うようになってきました。何が何でも思い立ったら今すぐに動かなければとまでは思いませんが、珍しきいのち、限りあるいのちをいただいて生きているんだと言うことを忘れずに生きていきたいものです。
 真宗大谷派(お東)をはじめとする浄土真宗の各派でお坊さんになる式、得度式は親鸞聖人が得度なさっと時に戸を閉め切って真っ暗な状態にして式が執り行われています。

御文をいただく 其の六十二 五帳目第八通⑥ 阿弥陀仏のおこころ

このあたりは南無阿弥陀仏という言葉の解釈をしながら阿弥陀仏の救いやお徳を蓮如上人はお説きになっています。「弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、阿弥陀仏」といわれてます。阿弥陀仏は阿弥陀仏に必ずすくい取ってほしいとたのんでいる人を一人たりとももらすことなくみんなすくいとろうとしておられるのです。阿弥陀仏が私たちをすくい取る基準は本気で救ってとたのむ心だけで後は何も必要としない、その心一つ持ち合わせているのならば阿弥陀仏のお仕事として私たちをすくい取ってくださるのです。私たち救われる側としては容易でありがたい救いであります。
 ところで阿弥陀如来は私たちにとって非常に都合のよい救いをなぜご用意くださったのでしょう。そこは一度「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えながら訪ねていかなければいけないところではないでしょうか。「如来大悲」という言葉が参考になるというか手がかりになるような気がしてなりません。

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