通信350_御文をいただく其の六十一五帳目第八通⑤

御文をいただく其の六十一五帳目第八通⑤_ 南無阿弥陀仏のこころ
 この御文には南無阿弥陀仏の南無という言葉の意味として「後生たすけたまえ」とおさえられています。すなわち南無阿弥陀仏とは阿弥陀如来様、後生たすけてくださいと願うことということになります。そういうことでいえば南無阿弥陀仏というのはただただ南無阿弥陀仏といっておればよいというものではなく、たすけてくださいという思いで称えなければならないものということにもなります。
 人生を長く生きておれば助けてほしいと思うことは度々あったことでしょう。だけど阿弥陀さんにそういうふうに願ったことは私たちはどれだけあったでしょうか。仲のよい友達にならばまだたすけを求めることがあるかもしれませんが…どうでしょう。
 またただたすけてくださいとお願いするのではなく、後生をたすけてくださいとお願いするのが阿弥陀さまなのでしょう。後生というのは後の生ということです。死んで人間のいのちを終えた後ということです。私たちはなにげに簡単に「あの世」といわれるところに行くと思っている方は多いのではないでしょうか。また、死後の世界はないと割り切っておられる方ももしかしたら多いかもしれませんね。仏教では仏に成らなければ永遠に六道輪廻といいまして地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という世界をいのちは生まれ変わっていくと考えてきました。今人間として生きているのですが、その人間としての人生がよいものであればよいところに生まれることができますし、悪ければ悪いところに生まれるのだと考えてきました。そして仏道(仏教)というのはこのような迷いの世界をぐるぐる巡り続けるのではなく、そういう迷いの世界から離れ仏という生き方をしようと説くのです。人間を含めた迷いの世界をこれからも経巡りたいですか?
 一度自分の人生を振り返って死後の世界を含めて未来どう生きていきたいかということを考えてみませんか。またお釈迦さまは人や天の世界までもを迷いの世界と捉えられています。皆さんはそのことどう思います?ちょっと立ち止まって考えてみませんか?

彼 岸 会
 彼岸は年に2回あります。春彼岸と秋彼岸です。 春彼岸は3月の春分の日を中心とした前後7日間、秋彼岸は9月の秋分の日を中心とした前後7日間のことです。 彼岸の始まりは「彼岸の入り」、最終日を「彼岸明け」、そして彼岸の真ん中にあたる春分・秋分の日を「中日(なかび、ちゅうにち)」と呼びます。その期間に期間に勤める法会を彼岸会といいます。
 「彼岸」という言葉は、昔のインド地方の言葉であるサンスクリット語の「パーラミター(波羅蜜多)」が語源です。「向こう岸に至る」という意味があります。ですから彼岸とは私たちが生きる、苦しみに満ちたこの世とは対照的な向こう側の世界、仏教の理想世界とされる悟りの境地や浄土のことです。
 春分、秋分の日は昼と夜の時間がほとんど同じ日であり、太陽は真東から登り、真西に沈みます。ですから春分・秋分の日は現世と浄土が最も近くなる日とされています。また西方浄土(彼岸)がどちらにあるかわかる日、私たちが進むべき道がはっきりする日なのです。
 お彼岸の日には特に先祖が我が身を使って「あなたも死す身だよ」と私たちに呼びかけてくださっていることを思いだし。限りあるいのちを生きている私はどのように今まで生きてきたのか、これからどのように生きていかないといけないのかそういうことを振り返ったり考えたりすることも大切なのではないでしょうか。

波別院巡回法座開かれる
綽如上人椅子の御影をお迎えして井波別院巡回法座が2月13日開かれました。お供されてこられた布教使さんは現影顕正さんでした。お話は永六輔さんの「人の死は一度だけでありません。最初の死は医学的に死亡診断書をかかれたとき、でも死者を覚えている限り、その人の心の中で生き続けている」という言葉を紹介されてお話が始まりました。コロナの第6波といわれるものが来襲していて当然ながらお参りいただいた方は多くありませんでした。早くコロナ退散してくれ!そしてみんなが安心してお参りできますように。

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