今月のことば2023年1月
お念仏とは自我のはじける音だ 念仏者 大河内了悟
通信361
皆さん、今月8日は私たちの教主釈迦牟尼仏がお悟りを開かれた日ということをご存じでしょうか?よろしければ覚えておいてください。
今から約2500年前、インドの北、現在のネパールの地で、釈迦族の王の子としてお生まれになられたお釈迦様は、29歳の時に世の無常を感じて、約束されていた国王の座や妻子を捨てて出家をされました。6年もの間、厳しい苦行を続けられましたが、苦行をすることでは真理を見いだせないとお気づきになられ苦行をすることをおやめになられました。その後、苦行をされた近くの村でスジャータという娘さんより施された乳粥によって、苦行で疲れ切った身体を癒されました。その後近くにあった菩提樹という木の下で瞑想ををはじめられ、そして12月8日の早朝、暁の明星の輝きとともに、お釈迦様はついにお悟りをお開きになられれたのです。つまり、12月8日はは仏教の教えが生まれた大切な日を意味するのです。
さてお釈迦さまのお悟りとはどういうものだったのでしょう。しかしこのことを知り納得できたならば仏様となることができます。ですからそう簡単に私たちが理解することは不可能でしょう。しかし方向性のようなものならば私たちは理解できるかもしれません。このことを知るためにはどうしてお釈迦さまが王様になる約束と家族を捨て出家なさったのかということを訪ねていくべきなのでしょう。なぜ出家なさったのかということを知る手がかりとして「四門出遊」という話しが伝えられていると思います。四門出遊の話というのは以下のものです。
今から約2500年前のインドにお生まれになられたお釈迦様はお母様と産後まもなく死別されたということがあってかいろんな事に敏感になりよく物思いにふけられていたそうです。そのことを心配されてか父である王様は美味しい食べ物毎日与えられたり、楽しいイベントを催されたりしてあまり物思いにふけないように心がけれられ育てられました。ある時、お城の外の暮らしもどんなものか見てみたいと思ったお釈迦様は、家来を連れて、お城の東西南北4つの門から出かけることにしました。東の城門を出られたお釈迦様は、道に、歯がおち腰はまがり杖にたよって歩く老人の姿をご覧になられました。その枯れ木のような老人の姿を見て、人間、誰しもがやがて必ず、あのように老いていかねばならないと、老いの苦しみを痛感されたのです。またある日、南門を出たとき、病人を見られ、人は病むという病苦の現実を深く実感されました。そして西門を出られたときに、葬式の行列を見られました。先ほどまで元気だった人が、青白くなって、もう動かなくなる。そして、焼かれてひとつまみの白骨になってしまう。人は必ず死んでいかねばならない。やがて死ぬのになぜ生きるのだろうか。人間は必ず死んでいくという、死苦の現実をまざまざと知られたのです。最後に北門を出られたとき、出家した僧侶を見て、人間は限りあるいのちを、自分の欲を満たすために生きるのではなく、老いや病や死を超えたなにか普遍的な真理を求めるために生きているのではないだろうか。私も、老いても病んでも、そしていざ死ぬとなっても崩れない本当の幸せになりたい、と、真実の幸福を求める気持ちは日に日に強くなっていかれたのです。これが四門出遊の話です。
お釈迦様は老・病・死、そして生という人間の避けることのできない苦を見抜かれ、その苦から解放されることを願い出家されたのです。
御正忌法要を勤めさせて頂きました
本日11月27日に御正忌法要と東老田尼講の追弔会を勤めさせてもらいました。御正忌法要というのは本山の御正忌報恩講に会わせて勤めさせていいただく法要です。以前は真宗門徒は本山で報恩講が勤まっているときは本山にお参りすると言うことが基本になってたそうです。しかし本陣より百里以上離れたところはなかなか本山にお参りにできないので地域の浄土真宗のお寺でお参りするというようなことになってたようです。当寺でも20年くらい前までは御満座が勤まる28日に勤めていましたが、今は本山報恩講中の日曜日に法座を開くようになってます。
お説教は午前午後とも住職がさせて頂きました。昨晩雷雨があったので今日はどんな天気になるかドキドキしてましたが、天気予報通り青空が見えていました。なんとかなんとか勤めさせてもらいました。
今月のことば_2022年12月
報恩講が勤まりました
10月31日より11月1日まで当寺報恩講を勤めさせて頂きました。 今年は住職が気ぜわしくてなかなか準備が進んでいなかったこともあります門徒さんの有志により草刈りや掃除をしていただき、なんとか準備が間に合いました。本当にありがたいことでした。
真宗門徒の一年は報恩講によって始まり報恩講によって終わるといわれるように、これから来年の報恩講に向けての準備を始めます、
通信360
御 礼
10月31より11月1日まで当寺報恩講を勤めさせていただいたところ、コロナ下で感染の危険性がある中、またお忙しい中ご都合をつけてお参りをいただき、そして厚いご懇念をお運びいただき誠にありがとうございました。心より感謝申し上げます。
お運びいただきました御懇志金は大切に常入寺の維持管理、そして運営のために使わせていただきます。今後とも常入寺維持運営にご協力いただきたくお願い申し上げます。
常入寺住職 青井和成
御正忌法要
11月27日(日)午前10時より午後3時30分まで
おしっちゃはんとは東本願寺でつとまる御正忌報恩講(8日間勤められる宗祖親鸞聖人のご法事)にあわせて勤める仏事です。
御正忌のお勤め 午前10時より
尼講追悼会 午後2時より
☆法話は住職が行います。
☆尼講員でない方で昼食が必要な方は24日まで住職まで申し込みください、実費にてお分けします
仏具磨きをしていただきました
10月23日東老田尼講の方々を中心に報恩講に向けての仏具磨きをして頂きました。住職はなかなか報恩講の準備が進んでませんが、仏具を磨いて頂いたおかげでほんの少しスイッチが入りました。
359 報恩講案内号_御文をいただく五帖目第八通⑧
報恩講厳修
十月三十一日午後二時より十一月一日午後三時まで
報恩講ではお念仏の声を共に聞いていきましょう
日 程
10月31日(月) 午後2時より 午後のおつとめ
11月1日(火) 午前9時30分より 午前のおつとめ
午後1時30分より まとめのおつとめ
お説教は各と勤めの後にあります。
お話しくださるのは 松井 勇さん(南砺市)です。
※例年のごとく1日にオトキを用意しています。しかし、感染症拡散予防のためオトキは持ち帰り用の弁当とし、遠方の方以外はご自宅で召し上がっていただきます。(予定)
※お参りの際にはマスク着用にてお参りください。
御文をいただく 其の六十四五帳目第八通⑧
後生って何?
この蓮如上人がお作りになられた御文には「後生」という言葉が度々出てきます。私の読む限り重要なキーワードとして扱われているように思えます。単純に意味を訪ねていけば後の生ということですから、死んだ後のことと言うことでしょう。今、現代においてなかなか死んだ後と問われてもピンとこない人が多いのではないだろうかと感じてます。それは「死んだ後の世界なんてないよ!」「今しかないんだよ。」とお答えになられる方が多いようにお見受けします。それと関係しているようにみうけれれます。
今を大事に生きるということでは大切な考え方だと思います。しかし次の生がないと考えるのも何か愛想んない感じを受けてしまいます。まぁ、本当のことは死んでみないとわからないことでしょうけど…。
少なくても南無阿弥陀仏を称えられてきた私たちの先輩方は後生というものがあり、そして浄土に生まれるためにお念仏を称えてこられた事実をなかなか後生というものを信じ切れない現代を生きる私たちは押さえておかなければならないことでしょう。「非科学的だ」「古くさい」という言葉で片付けることはあまりにももったいないと思いますし、先輩方に失礼なことだと思います。
少しぼやき気味になってしまいましたが、私的に考えると後生というのは死後の世界に限定せずに今より後、未来と考えてもよいと思っています。単純に後生があると思えている方はそのままでよいと思いますが…。このままの価値観で大丈夫か?このままの生き方で大丈夫か?このままで本当に未来はよいのかと問いかけていることばが蓮如上人が言われる「後生」という言葉だと理解されてもよいと思っています。後生という後の世を問いながら同時に今現在の私たちの生き方を問いかけていて、どんな未来を求めるのかと問いかけていることばなのではないでしょうか。
<御願い>
報恩講と御正忌法要を当寺で勤めさせていただきますので、
10月30日~11月1日、11月27日は皆様のお宅への月参りは休止します。
報恩講、御正忌法要のお勤めと併せて本堂にてお勤めさせていただきますでの是非とも報恩講、御正忌法要にお参りください。ご理解いただきますよう御願いいたします。
またどうしてもと言われる方は前もってお寺まで電話ください。日の変更など対応させていただきます。
今月のことば_2022年11月
358
報恩講をお迎えします
本年も10月31日から11月1日まで常入寺の報恩講をお迎えさせていただきます。コロナコロナというようになって三度目の報恩講をお迎えします。いつも通りホンコハン(報恩講)を勤めたいと思っているのですが、お寺のまわりでも感染したと言うことを聞くものですからやっぱりいつも通りにできません、感染対策を十分に講じながらも「浄土真宗の寺院の年中行事の中で一番大切な仏事」だということを踏まえながら開催させていただきます。皆様方、是非報恩講に一座でもお参りください。よろしくお願いします。
報恩講というのは、いうまでもなく私たちの宗祖、親鸞聖人の祥月命日を縁として勤められる仏事です。本山である東本願寺では11月21日より28日まで7昼夜、8日間にわたって勤められます。私たちの住む富山では「ほんこさま」「ほんこはん」などといわれる事が多いです。人のような呼び方をするのが面白い表現ですね。それだけ親しまれてきた仏事ということなのでしょう。
常入寺では10月に入った頃から準備に取りかかり出します。掃除が主な内容です。それも平生からちゃんと掃除をしておればここ場で時間はかからないのでしょうけどね(笑)。とにかく報恩講を迎えるために一生懸命準備をします。それは親鸞聖人のためであり、一人でも多くの方にお参りに来ていただきたいからです。
どうぞ皆様方、当寺の報恩講に是非お参りに来てください。そして私たちの先祖が大切にして、また私たちに残してくださった南無阿弥陀仏というお念仏を同じ時同じ場にて皆様方と一緒に称えたいと思っています。よろしくお願いいたします。
お道具磨き
10月23日(日)午前9時~11時
報恩講をお迎えするにあたって仏具を皆さんと一緒に磨きます。尼講の方々を中心として行いますが尼講員でない方もよろしければご参加ください。男性の方もご参加ください。
磨き用のタオルを一枚ご持参ください。
感染防止のためマスク着用にてご参加ください
今月のことば_2022年10月②
彼岸会を中止します
24日開催予定の彼岸会ですが、都合により中止します
今月のことば_2022年10月①
357
中止になりました 秋季彼岸会が勤まります
今月のことば_2022年8月②平和の誓い2022
中止 常入寺秋季彼岸会2022
9月25日午後1時30分より4時まで
紙芝居法話 石川正穂さん(富山市小出 玉永寺住職)
今月のことば_2022年9月
2022年9月
如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし
親鸞聖人
356_私たちには人生をやり直すリセットボタンはありません だけど いつでも生き方を改めることは可能です
皆さんは人生をやり直したいと思ったことや、人生を消すことのできる消しゴムがあったならばどんなに便利だろうと思ったことはないでしょうか。私にはあります。ない人がいるのならばうらやましいというかその人にとって生きることが本当に充実していることなのでしょう。
また私たちの人生はやり直しがきかないものだということを聞いたことはないでしょうか。輪廻転生という考え方もありますが、同じ人生というか同じ環境で二度生きられるということはないと思います。私として生きていることは一度きりなんだといっても言い過ぎではないと思います。そう言う意味で私たちは人生をやり直すことはできないのです。そういう一度しかない人生を生きているわけですが、いろいろ失敗をしてやり直せるのならば…と思ったことは皆さんにもあるのではないでしょうか。私たちの人生は初めや途中からやり直すということはできません。だけれども哀しむ必要もないのです。しっかり反省をして二度と繰り返さないと心に言い聞かせて生き方を改めて行くことは私たちには可能なのです。過去の失敗を忘れず、二度と繰り替えなさいようにとすることは私たちには可能なのですから。また改め直そうとする心が私たちにとって一番の宝物だと私は思います。
剪定並びに境内清掃
7月17日午前中、門徒有志の方々が集まって頂き境内の清掃並びに樹木の剪定をして頂きました。とってもさっぱりした感じになりました。
途中雨が降ってくることもあります快適な気候ではありませんでしたが、皆様のおかげで綺麗になりました。ありがとうございました。
今月のことば_2022年8月
私たちには人生をやり直すリセットボタンはありません
だけど
いつでも生き方を改めることは可能です
なおしてもらいました
式台のところが虫が入っていポカポカになってしまっていたので修理していただきました。そしてそのついでに庫裡から本堂に向かうところでちょっとスロープが急すぎると助言いただいていたところをスロープをやめ階段にして、手すりを設置してもらいました。
今月のことば2022年8月
2022年子ども月間
355_生きるということは変化していくということだ
今月のことばは先日テレビドラマを見ていてはっとした言葉を選びました。私たちは常に変化し続けているのです。肉体的にいえば生まれてきたときは赤ちゃんとして生まれ、大人になり、そして気づいたら老化していってしまっています。同じ状態ということはないですよね。先輩方とお茶を飲んでいると「去年できていたことが今年はなかなかできなくなっている」と言われることがあります。実感なのでしょうね。精神的にもずっと一緒というわけではないですよね。同じものをみても10年前と違った感覚で受けることもあります。それを成長ということなのでしょう。私たちは死を迎えるまで成長、変化し続けているのです。いろんな人とのであいによって、いろんな出来事に遭遇することによって私たちは変わり続けているものなのではないでしょうか。変改していくという自分の意思決定で変わっていっているというよりは受動的に私の思いを超えて変化していっていると思います。老化していくという変化を考えてみると今までできていたことがどんどんできなくなっていくという悲しい面もありますが、一方で長年生きる中で甘いも酸いも噛みしめてきた分、物事を多方面から見ることができいろんなものを引き受けていけるようになること言うことでもないでしょうか。老化ということも一面で考えれば成長しているともいえると思います。
祠堂経会を勤めさせていただきました。
6月19日から20日まで当寺祠堂経会を勤めさせていただきました。コロナ禍であるにもかかわらず選んでお参りいただき本当にありがたかったです。お説教は魚津市の佐賀枝立さんにお願いしました。祠堂って何?お布施って何?というお話をくださったり、ご自身の仏教の出会いについてもお話しくださいました。大きな大きなはたらきの中私たちは生活をしていて、仏法に出会わせていただいていることなのだろうということを思わせていただきました。
今月のことば_2022年6月③
偉くならなくてもいい、お金を稼がなくても…/ただ幸せになることを諦めないで生きてくれれば…
今月のことば_2022年7月
生きるということは変化していくということだ
辞書編纂者 沢田林太郎
(ドラマ『持続可能な恋ですか?』より)
2022年高岡教区第8組同朋大会
354_御文をいただく 其の六十三五帳目第八通⑦
祠堂経会厳修
二〇二二年六月十九日午前九時三十分より二十日午後四時まで
6月19日(日)
午前の部、並びに祠堂のお勤め
午前9時30分より
尼講のお勤め 午後2時より
午後の部 尼講のお勤めに引き続き
6月20日(月)
午前の部 午前9時30分より
午後の部 午後2時より
(午前の部12時頃、午後の部4時頃終了予定です)
※19日は尼講によるオトキがございます。(予定)
東老田尼講員以外でオトキをご希望の方は実費にてお分けします。6月13日までに住職に申し出てください。
※それぞれのお勤めのあとに法話があります。
法話は両日とも佐賀枝立さん(魚津市栄明寺住職)
がされます
※新型コロナウイルス感染症の拡大状況によって中止を含めて内容を変更する場合があります。(変更の場合は本堂前に張り出します)
※マスクをするなど感染症対策をしてお越しください。
どなた様もお参りできます、お気軽にどうぞ。
皆さんといっしょにお念仏のみ教えを聴聞いたしたいと思っています。
ご近所の方々をお誘いの上お参りください。 お待ちいたしております。
御文をいただく 其の六十三五帳目第八通⑦
御文とは、蓮如上人という今から530年くらい前の方なのですが、その方が私たち門徒に念仏を勧められるために書かれたお手紙です。言葉遣いは昔のものですからちょっと考えないと意味のわからないところや誤解してしまうところがあります。また今の常識の中で生きているものが聞くとあれっ?て思うところがあるのです。特に女性に対する認識は今の価値観にはあわないと思えるところが沢山あります。この御文もその一つです。世の中では「五障三従の女人」と言われているが、とお念仏の目指す社会ではないですが今の社会ではこう思われていると紹介されています。女性は生まれつき五つの障りがあり、だからその時その時によって従って生きていかなくてはならないというのが五障三従という考え方です。今の男女ともに社会参画をしていこうという考え方とは相反するものですね。蓮如上人もこういう社会ではなく念仏してそんな社会ではない浄土に行こうと誘っておられるのですが、今聞くとわざわざ五障三従の女人ということをわざわざわざいう必要がないと感じてしまいます。
でも「五逆、五障・三従の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて、ひたすら後生たすけたまへとたのまん人をば、(中略)みなことごとくもらさずたすけたまふべし」という言葉に救いを感じられた方々も沢山おられたこと事実でしょう。だからこと蓮如上人がおられた頃「女人講」という念仏を基とする信仰集団が沢山結成されたのです。
常入寺では祠堂を常時受け付けています。お寺に寄付することを祠堂といいます。身内が亡くなられたことを縁として祠堂されることが多いです。祠堂をなぜされてきたのかということを考えればそれはひとえに仏教(お釈迦さまの教えが)がいつまでも相続されるように、多くの人にとどくようにという思いからされてきたと思っています。祠堂される方の思いということもあるのでしょうが、それ以上に今亡くなられた人が願われてきたこととして、その思いを受け継いでこられたのでしょう。
いつ祠堂すればよいのですかと聞かれることがありますが、寄付ですので、しなければいけないこともありませんし、いつということも決まってはいません。思い立ったときお寺にお持ちいただければありがたいです。また金額についてもお気持ちをお入れくだされれば結構です。決して多い少ないということはありません。祠堂しようというお気持ちがなによりお寺にとってこの上ない喜びですから。