286 御文をいただく 其の四四 五帖目第五通④

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御文をいただく 其の四四五帖目第五通④

 浄土真宗で信心と言われてきたことは、それは阿弥陀仏が本願を建てられ仏となられたお心を知ることであると言うことがまず説かれているわけです。そして次に、その信心をとるということは南無阿弥陀仏の姿を心得ることであると蓮如上人は説いてくださっています。でもなか意味がわからないかも知れません。南無阿弥陀仏は言葉であるにも関わらずすがたとありますから……。
 南無阿弥陀仏について私の先生は以前「音声佛(おんじょうぶつ)」なのだと教えてくださったことがあります。これもわかりにくい表現かも知れませんが、声となって現れてくださった仏様という意味であると私はいただいています。私が今聞いている南無阿弥陀仏という声は阿弥陀仏が私たちを救おうと思ってわざわざ声となって私たちの前に現れてくださっているのだと言うことなのでしょう。そういう意味で言うと南無阿弥陀仏の声に仏を感じると言うことがすがたを心得ると言うことだと言ってもよいのかも知れません。南無阿弥陀仏が仏であると言われてきたことに、そういうことなのかと頷く歩みが南無阿弥陀仏のすがたをこころうるというふうにしかいしていいのかもしれません。