283 御文をいただく 其の四四 五帖目第五通④

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御文をいただく 其の四四五帖目第五通④信心をいただくということ

「信心獲得するというは第十八の願をこころうるなり」この言葉をいただきますとき、私たちの思っている信心や信ということと親鸞聖人や蓮如上人が思っておられる信心ということは違うんだということに気づかせていただきます。
 私たちが信心といわれてイメージすることは目もくれず他のことが目にはいらなくなったり、受け付けなくなるくらいいわゆる盲信的なものを浮かべる方がほとんどではないでしょうか。テレビを見ていてニュースの中に出てくる宗教の話は何もわからなくなり何千万もする壺を買ったり寄付をしてしまうというものがほとんどですから。
 しかし、しかし、蓮如上人が書かれたこのお手紙の中には、信心を得るということは阿弥陀如来が誓われた第十八番目の誓いの思いを心得ることであるといわれています。言い換えればそれは阿弥陀如来がなぜ念仏成仏の救いの道をご用意くだされたのか、私たちをなぜわざわざお救いくださるのかというゆえん、すなわち訳を心得ること、納得することが信心をいただくということなのだと明確に示してくだされています。
 阿弥陀如来が大悲を起こされ私たちを易く救おうとされた訳を知るには阿弥陀仏だけに目を向けていてはなかなかわからないことでしょう。本願だけをどれだけ見つめていてもわからないことでしょう。如来が救おうとなさっている対象者すなわち我々人間のありよう、もっといえば私の生き方もあきらかにしていき救われなければならない私ということを明確にしていく必要があるのではないでしょうか。
 阿弥陀仏の大いなる願い・悲しみと救っていただかないといけない私のありようを訪ねていくことによって信心がいただけることなのでしょう。またそういうふうに歩んでいくことが浄土往生の道を歩むということなのでしょう。

当たり前って当たり前?

 先日NHKを見ていましたら発達障害についての特集をしていました。いろいろといろいろと発達障害についての研究が進んで少し原因がわかってきているみたいでした。いろんなのもの音が気になる、光をまぶしく感じるなど感覚過敏によりいわゆる「発達障害」起こっていることもあると番組で言っていました。また大人になっても発達障害と診断される人がいるということも初めて知りました。
 この番組の中で一番印象に残っているのは当たり前当たり前と私たちが思っていることを人に押しつけることによってその当たり前という常識によって苦しんでいる人が居るということでした。自分ができて当たり前と思っていることも隣にいる人はそのことができることが当たり前でなかったりするんですよね。
 人は誰一人同じ存在ではありません。考え方もみんな違います。また能力も才能もそれぞれ違います。そういうことを個性というのでしょう。人間の成長というのも同じことなのでしょう。身体的な成長のスピードが人それぞれであるのと同じで心の成長も同じということはないのでしょう。子どもだけではなく大人であっても。
 いつのまにか私たちは多くの人ができることや思っていることを常識や当たり前になってきます。でもこれは多くの人の常識であってみんなの当たり前では決してありません。しかしついつい常識はみんな同じものを同じものをもっていると誤解していってしまうのです、私たちは。その漠然とした「常識」から外れた人が常識に苦しんだり、常識に近づこうとして苦しんだりするのです。
 私たちは当たり前って当たり前?とか私の常識はあの人の常識ではないとかいうことを頭のどこかにおいておくことで生きやすくなられる方があるのでしょう。