263 お正月からの宿題

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 今年のお正月ある方から質問をいただき、どのように答えたらよいのかわからず、ずっと悩んでいたことがあります。どんな質問をいただいたかというと、「親鸞聖人はお宮さんに参ったらあかんいうとるがか?」というものでした。おかげで改めて考えることができました。これに関する親鸞聖人のお言葉をそのまま紹介することは難しいことではないのですが、どのようにその言葉のお心を伝えたらよいのか悩んだわけです。しかし悩んでいるうちに今私が思っていることでよいのか、そのお心は何なんだろうとまた改めて考えさせていただきました。結局ありがたいご縁をいただきました。
 親鸞聖人は主著であるいわゆる『教行信証』に「それ、もろもろの修多羅に拠って真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば、涅槃経(如来性品)に言わく、仏に帰依せば、終にまたその余の諸天神に帰依せざれ、と。略出」と涅槃経のお言葉を引用なさっています。仏様に帰依をしたら終にはは神祇には帰依しないようになるのだという、お釈迦さまのお言葉をお記しになっています。しかしまた、「天神地祇はことごとく/善鬼神となづけたり/これらの善神みなともに/念仏のひとをまもるなり」とも歌われています。神祇は念佛のひとを守るのだと前の言葉とは一見すると真反対のようなことをいわれています。
 どうも神様の存在を全て否定されているようではなく、お参りの仕方、お参りの心得として自分の欲望を叶えるために神仏を憑まないということをある意味お伝えいただいているように感じます。よくよく考えてみてください、こんな私たちみんなが自分の思いがかなってばかりいる世界はどんなことになるでしょうか。結局自分のことしか考えれない私たち、欲望に包まれた私たちが自分の思いばかりかなえようと一生懸命になると争いごとの絶えない世界になっていってしまうのではないでしょうか。
 私たちが神仏に願うべきことはやはり、人らしい生き方ができるようにということにつきるのではないでしょうか。せっかく人として生まれさせていただいた私たち、しかし人らしい生き方ができているでしょうか?また人らしい生き方て何なんでしょうか?よく考えてみるとわかっていないのが私たちであり、またこのことは悲しむべきことなのではないのでしょうか。ある意味そういうことをわかってる人、悟った方を仏様というのです。私たちが願うべきことは祈るべきことは仏になりたいということの他にはないのです。また神仏も仏になることを私たちに願われていることでしょう。浄土真宗の立場は神祇不拝ですが、熊野神社にお参りなられたということがあるわけですから、それは神様の存在を完全否定するものではなく、ある意味神様に何をたのんでいるのですかという問いなのです。ですから親鸞聖人は単純にお宮さんに参るなとはいわれていないと私は思います。
 しかしこのことでもう一つ思うことはお参りしない自由ということも認める必要があると思います。先の戦争を終えて二度と戦争を繰り返したくないという思いでできた日本国憲法です。私たち日本国民はそのなかで歌われている「信仰の自由」という課題もしっかり考えていかないとならないと思います。