261 御文をいただく 其の三六 五帖目第三通④

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すでに救いの手あり
 お文様を読んでいますと疑ってはならないとか疑う必要が無いということが結構書かれているような気が私はします。そんなことを思うとき浄土真宗の教えというのは今から生き方を変えて立派なものになりましょう。疑いがなくなったら救ってくださいというものではないと気づかせていただきます。
 このお文にある「さらにうたがいのこころゆめゆめあるべからず。」というのは疑いの心を持ってはいけませんという意味ではなく、疑いの心を持つ必要が無い、そのことに気づいて行きましょう。という意味が込められている言葉なのだと私はいただくわけです。
 阿弥陀如来様の救いというのは今から始まるものでもなく、また未来に行われるものでもないのです。今すでに始まっているものが如来様の救いです。過去から今までも救いが行われておりこれからも救いの手がさしのべられていくことに気づいていく教えなのだと私は感じます。阿弥陀如来様に救ってもらうために疑わないように努力していくというのではなく、今まさにに救いの手に収まっているという救いを疑いなく信じていく、頷いていく歩みが疑いの心ゆめゆめあるべからずという歩みだと私はいただいています。私を救うために阿弥陀如来様は私たちに「ナムアミダブツ」という声が運ばれてきているのです。如来が私を救おうとなさっている証として「ナムアミダブツ」という声があるのです。