258御文をいただく 其の三五 五帖目第三通③

258.jpg

たすけていただく教え
 このお文を頼りに考えていくと浄土真宗の教えは、後生をたすけてほしいと願っている人を全て阿弥陀如来がすくい取るという教えということになると思います。ということはたすけてほしいという思いがなかったら救われていかないということになると思います。みんな救うという教えというよりは救われたいと思った人という限定条件があると思います。
 ところで私たちは平生の生活の中でたすけてほしいという願いを持って生きているのでしょうか。いつもそのように思って生きておられる方は、私の想像ですが、そんなにおられないのではないでしょうか。そういう点から考えると私たちの浄土真宗の教えは身近なものではないとも言えるのかもしれません。
 しかし、私たちの親をはじめとする先祖の方々は「南無阿弥陀仏」とお念仏を称え浄土真宗の教えを聞き続けられ、私たちに手渡ししてくださった訳です。ちょっと不思議な思いがします。時代が変わったから助けを必要でなくなったのでしょうか?経済や物質的に豊かになったので阿弥陀如来様の救いが必要でなくなったのでしょうか?私はそうではなく、自分が救われなければならないことがこういう「豊かな」時代になってなくなったのではなく、ただ見えにくくなっているだけなのではないかと思うのです。
 自分を見つめるという非常にめんどくさいことをせずに、いろんな道具を作ったり駆使したりして紛らわしたりごまかしたりしているのが私たちの今のありようなのではないでしょうか。自分のたすけていただかなければならないすがたを見ないでおくための道具が今いろとこの世の中にあふれているのかも知れません。携帯電話という道具もその代表的なものなのでしょう。
 先祖が私に聞かせて下った「南無阿弥陀仏」という言葉を称えながら私という存在を振り返ってみたり、阿弥陀如来がなぜ私たちに南無阿弥陀仏の救いをご用意くださったのかといういわれを今だからこそ訪ねていかなければならないような気がします。