255 御文をいただく 其の三四 五帖目第三通②

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御文をいただく 其の三四 五帖目第三通②

 一心一向にと言うことは心を一つにして一方向だけ向くと言うことです。一心不乱という言葉とほとんど同義の言葉です。また私たちがいつも使っている言葉で言えば「全く迷わない」という言葉が近いのかもしれません。迷わず信じることが一心一向と言うことでありましょう。しかし、このお文には信じるとは書いてありません。信じると私からすれば書いてあるはずのところに「たのみまいらせて」とあります。信じるということがたのむと言うことなのでしょうが…。
 ある意味、浄土真宗の信じると言うことは、信じよう信じようと自分に言い聞かせて信じていくことではなく、私たちは阿弥陀如来にたのんでいかないとどうしようもないということに気づいていくあり方なのではないでしょうか。
 先輩方は二種深信という言葉で浄土真宗の信仰の内容について語っておられます。親鸞聖人が七高僧と仰がれている善導大師のお言葉の「深心と言は、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには決定して、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し、常に流転して、出離の縁あることなしと深心す。二つには決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生を得と信ず」が拠り処となっています。信仰の内容を二極面から見られたお言葉です。ものすごく簡単にいえば浄土真宗の信じるということは自分と阿弥陀如来を信じるということです。自分を信じるということは,このままではたすからない自分であるということに気づくことです。そして阿弥陀如来を信じるということはそういう私を阿弥陀如来様が必ず救って下されると信じることです。そしてこの二つのことは同時であり、切り離すことができないことなのです。
 他の仏様や神様が偽物であったり、間違っていることを言っているからダメで阿弥陀さまだけが正しく本物だという信じ方ではないということです。自分は助けてもらわなければならないことに頷いていくことが浄土真宗の信仰だと私はいただくわけです。
 今地球のあちらこちらできな臭さを感じます。民族と民族の対立、文化と文化の対立、貧富の対立、そして宗教と宗教の対立、いろんなところで起こっているようです。その中でいろんなものが破壊されていったり否定されていったりしています。人間の生命、動植物の生命がそのなかで奪われていっています。私から見ればほとんどが、正義と正義の対立です。違う正義を立ててこっちの正義の方が正しいのだという主張にも見えます。「正義は一つ」という考え方の行く末は対立、戦争しかないよに思えてなりません。他を認める、他の正義を認めるという意識がいま私たちに求められているような気がしてなりません。
 信仰ということにおいても正しさを求めて他を排除していくものではないと思うのです。