250 年頭にあたって

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年頭にあたって
 二〇一五年を迎えることができました。皆様いかがお過ごしでしょうか。そろそろ「明けましておめでとうございます」というのもいやになるというか疲れる頃なのではないでしょうか。
 昔いろんなことにとげとげして生きていたとき、なんで「明けましておめでとうって言わなくてはならないのか」なんて思ってしまって、あけましておめでとうというのがおっくうになっていたことがあったことを思い出します。そういうこともあって新年はなぜめでたいのかということを考えていたこともあります。そのなかで一つ答えが出たことがあります。新年明けましておめでとうというのはある意味お誕生日おめでとうということなのだと気づいたのです。明治の初め頃、満年齢で数えなければならないという法律ができ数え年満年齢に変わっていきました。数え年でいうとみんな歳と一つとるのはお正月です。そういう意味でみんな昔お正月が誕生日であったといってもいいのかもしれません。だから明けましておめでとうというのはある意味お誕生日おめでとう。少なくても皆さん一つとりましたよね、おめでとうございます。そういう思いで新年の挨拶をされていたんではないかと自己解決したことでした。
 さて、親族に亡くなった人がいて喪に服されている方に新年の挨拶をしてはいけない、年賀状を出してはいけないそういうことを言われてきていますけど、私はどうなのかなって思うわけす。喪に服するとは晴れがましいことや派手な行動は慎みむことを言うわけです。喪に服している人がわざわざ新年の挨拶をする必要はないでしょうけど、周りの者が相手にひとつとしをとったことを互いによろこびあうということはしてもいいのではないでしょうか。そういう意味で明けましておめでとうっていってもいいと私は思う訳です。
基本的に仏教的観点からいうともに服するという行為を大切にしなくてはならないのではなく、喪に服そうという心が大事なのです。形は様々だと思います。