246 御文をいただく 其の三〇 五帖目第四通⑨

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お墓のお供え
 常入寺の墓地ではあまりそういうことを聞かないのですが、友人などからよく「お盆の後の墓地掃除どうしている」って聞かれるときがあります。話しによるとお盆の後の墓地は大変なことになっていて掃除をするのが大変だと言うことのようです。お供ものなどが墓参りなさられた後、そのままになっていてそれをカラスなどがいたずらをして散らかしていったり、お花なども空いたスペースに平気に棄てていかれ見るに堪えない状態に毎年なっておられるそうです。このあいだテレビではカラスが燃えかすの蝋燭をくわえるのだということもやっていました。もし火のついた蝋燭をいたずらして火事になったら大変なことだなと思いました。
 本来仏様にお供えしたものはお供えしたままということはありません。お供えした後お下げして縁あるもので食べられるものは頂くということが昔からされています。「仏様の息のかかったものを頂くのだ」と大切に頂かれていましたね。お墓などでもお供えしたままというのは仏様に対して失礼なことなのではないかと最近考えます。ですからお参りした後にすぐお下げされるか、後日確実にお下げしえて縁ある方々で召し上がられるのが本来なのではないかと考えるようになってきました。
 また墓にもっていたものは家に入れてはいけないということを耳にしたことがありますが、浄土真宗では決してそういうことは言いません。現代において穢れ思想を信じる必要はありませんし、前にも書きましたが穢れを信じることは亡くなられた方に対して本当に失礼なことだと私は強く皆さん方にお伝えしたいのです。
 またお供え物を置いてきているのに後日綺麗になっていると言うことは誰かが黙って掃除してくださっている方がおいでになると言うことも可能性としてあるのではないでしょうか。
 お供え物は後にお下げして頂くものだという仏教の基本をお忘れにならないようにお願いいたします。
御文をいただく 其の三〇 5帖目第四通⑨
 阿弥陀如来様にたすけてくださいと深く信じて、そのことによって自分の負っている罪を背負いながらもおたすけを如来様に完全に任せるようになる「一念の信心」が定まったものはみんな浄土に阿弥陀如来様によって往き生まれさせて頂くと言うことは疑う必要がないのだ、と仰っておられます。一念の信心を頂けたなら浄土に生まれさせてもらえることは疑う必要のない事実だということなのでしょう。このお文を書かれた蓮如上人はその確信はどこから来るのでしょうか。   
 阿弥陀如来様のお浄土に往くのが浄土真宗の教えではありません。阿弥陀如来様によってお浄土に生まれさせて頂くのが浄土真宗の教えです。ですから他力本願などという言い方がなされるのです。私たちの計らいや努力などによって生まれていくのではなく、阿弥陀如来様によって救って頂くしかないという教えだからです。ちょっと道草をしますが他力本願という言葉の意味は人任せにするという意味では決してなかったのです。少なくても浄土真宗において使われるときは阿弥陀如来様の願い本願をたよりにするという意味で使われるのです。
 お浄土に生まれさせて頂くのも阿弥陀如来様のお働きなのですが、お浄土に生まれさせて頂くために必要な一念の信心も「他力の信心」といわれるように、実は阿弥陀如来様から頂くものなのです。ある意味阿弥陀如来様は至れり尽くせりの救いを私(たち)にお運びくださっているのです。それぐらいのことをしないと私たちが救われると言うことがないということでもあり、また何とかすくい取りたいという阿弥陀如来様の大いなる悲しみのものからおこる大いなる願いをお持ちだからなのです。
 そしてもう一つ、私の耳に届いている「南無阿弥陀仏」という声や、言葉も阿弥陀如来様が私に阿弥陀如来様の願いに気づいてほしくて運んでおられるのです。それだけ阿弥陀如来様の悲しみからおこる大いなる願いは多きことか、深いことがという証しなのでしょう。
 念仏が私の所までお運びくださっているのも阿弥陀如来様のお救いであり、信心をお運びくださることも、そして言うまでも無く浄土に生まれさせてくだされることも阿弥陀如来様のお計らいなのです。救いなのです。また全てが阿弥陀如来まします証しなのです。私たちが南無阿弥陀仏という声や言葉に触れていると言うことは私たちを何とかしようというお働きがすでに始まってると言うことなのです。ですからこの南無阿弥陀仏という声のいわれを訪ねてゆき阿弥陀如来様はこんな私を救おうとされておられることが間違いなしと頷くことをさせてもらえたならばその阿弥陀如来様は必ずこんな私でも浄土に生まれさせてくださることは疑う必要が全くないこととなるのでは無いでしょうか。