244 御文をいただく 其の二九 五帖目第四通⑧

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うたがいなく信ずる

          
 皆さんは何かを忘れよう忘れようと努力しても全く忘れられないというのにでくわしたことないですか。反対に記憶にしっかり残るみたいな事。浄土真宗でいう「信心」ということも私はなんとなく似ているのではないかという思いが私にはあるのです。
 阿弥陀仏を信じよう、念仏つによる救いを信じよう信じようとしても、信じることのできない自分がなおさら明らかになることの方が多いのではないかと私は思うのです。反対に阿弥陀仏の救いを信じようとする道を歩むからこそ信じることがなかなかできない自分を阿弥陀仏からあきらかにされたともいえるような気もします。
 信ずるということに対して念仏を称えてこられてきた先輩達は他力の信心という言い方をよくされます。信心すなわち信ずることは他力だと。他なる阿弥陀仏のはたらきによって初めて阿弥陀仏を信じさせてもらえるようになるのだということです。阿弥陀仏を信ずるという私の行為も私の努力の中で信じていけるようになるのではないといういうふうに読み取れるのではなでしょうか。だけれども信ずることをあきらめよというわけでもないと私は思います。たすかりたいという私の思いは大切にしていかなくてはならないことでしょう。何故たすかりたいのかという思いが私の中にあることを確かめ、その心を深めていく、訪ねていくという歩みはしていかなければいけないことだとは私は頂くのです。
 私が今なぜ念仏に出遇っているのか、今なぜ私は救われようとしているのか、私はなぜ幸せになろうとしているのかということをお釈迦様の教えすなわち、念仏のみ教えをたよりにしながら訪ねていくことが大事なことであり、その歩みの中で「如来よりたまわりたる信心」「他力の信心」というものが頂けるようになっていくことでありましょう。