243 死を尊むというあり方

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死を尊むというあり方
 一ヶ月の間でお二方のお子さんのお葬式に遇わせてもらいました。お一方は産声を上げることなくお亡くなりになって行かれた方でした。小さいお子さんの死というものは何ともいえないものがあります。お歳を召した方のお葬式は楽だという意味ではないのですが、思いもしない人の死というものは、ただおどおどするのみです。遺族の方にどのように声をかけてあげていいのか思いつきません。なおのこと親御さんには。
 親御さんをはじめとする家族の方のショックは大きいのでは、もしかした心の病にかかってしまうのではないかないかということが心配になっていってしまいます。しかしこのようなことを心配するのは当然のことであり大切なことなのですが、何かもう一つ大切なことを忘れているのではないかといつしか自分自身に問い掛けるようになっていました。その中で気づいたことは私が亡くなられた方との出遇いを置き去りにして遺族の方のことばかり考えていたのではないかということです。亡くなられた方と家族の方としっかりお別れさせてあげなくてはなんていうことに気をとられすぎて故人と私の出会いというものを置き去りにしていたことに気づかさせてもらいました。
 お亡くなりになられた方は当然のことですが、もうお会いすることはできません、人間としては。しかし仏様としての出会いはできるのです。
 私たちが平生気づくことのできないことを尊くも気づかさせてくださいるはたらきや存在を私たちの先輩方は「仏様」と呼んでこられました。そういうはたらきをしてくださった方として出会い直していくことを私たちは故人としていかなければならないことでしょう。
 私たちは自分の死ということを無意識のうちにあえて考えないように生活いているようです。また、まだまだ自分の死を先のこととして私たちは捉えて生活しているのではないでしょうか。だけど縁ある方がこの世の生を終えて行かれるという事実ににおいて私たちは自分自身も死というものを迎えなければならないということを考えさせられます。亡くなっていかれた方は我が身を使われて人間は誰しもいつか必ず死を迎えなければならないということを私に教えてくださっているのです。亡き人は自身が亡くなるという事実をとおしてを仏様として私たちに生きることの尊さをお諭しくださっているいるのです。
 そのような出会いを人が亡くなる度に私たちはしていく必要があるのではないでしょうか。亡き人を私たちの先輩方が「仏様」と仰ってこられたように、そのような出会いを心がけないと行けないと最近反省させられています。