生まれた意義と生きる喜びを見つけよう

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先日月18日常入寺にて井波別院法宝物巡回法座がありました。
住職の不手際で多くの人に案内できないままの開催でしたが、いつもお寺に来てくださっている方のご尽力によってまぁまぁ参加者でした。
お寺にお参りに一人でも多くお参りに来てくださる,そのことが本当に大事なことでお寺の大切な使命だと思わせていただいたわけです。
今大谷派高岡教区内にある二つの別院が同時に御修復事業に取りかかっています。そのことについての説明会が22日ありました。両別院とも御修復のための懇志金が思うように集まってこない。特に井波別院はもっと深刻で教区内寺院住職の方々にもご協力を御願いします。ということだった。
最初の計画では別院の御修復奉賛会が主体となって集めると言うことでしたが、思うように入ってない。巡回法座が壊滅的状況の中では頼るべきところがない。ということのようです。非常に人事のようなのですが。
説明を受けて思ったことは、別院って何なんだろうって言うことでした。
そのことが自分の中ではっきりしていないからなかなか懇志を集めるという動きが自分の中で始まらないのでは。
今まで別院の存在意義があったから別院が存続してきていた、それなら今は。
井波別院の正常化っていう言葉がありまして、この説明会の中でも井波別院は正常化したとありました。大谷派に帰属しただけで本当に正常化なのか。本当は今までもこれからもまだまだ正常化に向けた歩みをしなければいけないのでは、なかったのでは。と思ったわけです。
北斗の拳というアニメで主人公が「オマエはすでにしんでいる」という台詞がおきまりのようによく言われていたのですが、
まさにそのことが別院に向かっていわれていたような思いになりました。
別院はすでにしんでいる、だからそこに誰も投資はしないんだって。
やっぱり御懇志を頂くためには、
生まれた意義と生きる喜びをみつけよう
という宗祖親鸞聖人700回忌の時の教団テーマではないですが、
別院が維持されてきた意義、それをしっかり見つけていかないとならない。これからも存続していくことの大切さを実感していかないと堂喪ならないと。
お育ていただいたという思い、これからお育ていただくところ、そういう所として正常化していかないと別院の維持は大変だと思いました。
御崇教対して親鸞聖人の教えを伝えるこういうことをしていくんだという決意、出来なくても決意をあきらかにしていくことが私は御修復には、別院の護持には本当に必要だと思たわけです。
能く能く考えればこれは別院のことだけではなく、私が所属しているお寺も、そして住職としての私にも問われていることなのでしょう。
オマエはすでにしんでいる、
この言葉に生きている証しとして反応していくこと、そのことが何よりも大切だと思わせていただいたわけです。

この状態が仏法興隆の大事な縁としていかないとな、
本当にしんでしまいます。

教団、別院、末寺の生まれた意義と生きている喜びを感じていかなくては!
本当に、
これから大変なことに、もうすでにかもしれないけどなっていくことでしょう。

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