223 鬼は外で私たちは本当に幸せになれるのか

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鬼は外で私たちは本当にせになれるのか
 節分とは本来季節と季節の分かれ目をいうそうです。ですから二月だけあるのではなく、年に四回あるそうです。しかしいつの間にか節分といえば立春の前の日だけをさす言葉になってしまったようです。
 節分と言えば昔は豆まきという感じでしたが。最近では太巻きを食べる日になりつつあるようですね。しかしテレビのニュースでは風物詩としていろんな所のまめまきが報道されています。その中で豆をまく時のかけ声として、「鬼は外、福は内」ということが一般的ですが、いろいろ調べてみますとそうでないところがあるようです。特に鬼にまつわるお寺やお宮さんでは違うようです。鬼などがご神体になってる場合などはやっぱり鬼に去ってもらうと都合が悪いからなのか、鬼は外という言葉を言わずに福は内だけだそうです。
 しかし私は思うのですが、鬼といわれるものを追い出すだけで私たちに福がくるのでしょうか。自分にとって都合の悪いものを排除することによって私たちは幸せになることは出来るのでしょうか。私はそういうふうには思えないのです。鬼は意味もなく私たちを襲ってくるのでしょうか、何かしら私たちに原因があるのではないでしょうか。そういう意味で私たちの問題をあきらかにしてくれるはたらきが鬼とも言えることでは無いかと思うのです。私を攻撃してくるはたらきなどはなかなか受け入れがたいし、そういうものから自分を守ろうとします。それが当然の行為なのでしょうが。しかしどれだけ敵を追い出したとしても襲ってくる原因が私の中にあるのならば、また違うものが私たちに襲ってくると私は思うのです。私に福がこないのは鬼のせいではなく、私の内にある鬼がおそってくる原因にあるのです。福にならない原因は私たちの中にあると言えることなのでしょう。
 私たちの内にある問題は自分を守る回路が私にあるためかかなかな知り得るものではありません。他なる存在から指摘されないとわからないものです。わかるというか想像はついてもなかなかそのことに頷けるものではありません。
 ある意味鬼によってでしか私の抱えている問題に気づくことは出来ないのではないでしょうか。鬼が私たちにくることによってやっと私が本当の幸せになる歩みが始まると言えることだと思うのです。そういう意味で鬼は福とも言えるのかな?
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御文をいただく 其の二二 五帖目第四通①
 テレビを見ていますと最近、「草食系男子」という言葉が結構よく目につきます。昔から比べると男が積極性がなくなったことを言い当てている言葉なのでしょうか。そして今「絶食系男子」という言葉も生み出されたようです。これは草食どころか、女性に興味を持たなく男性をさす言葉だそうです。なんだか男性がどんどん弱くなって行っている現状を表す言葉なのでしょう。ある人は女性が普通に働くようになってお金を手にするようになったからだと嘆く人もおられます。全部この発言を否定する気にはなりませんが、私は納得もしたくないです。夫婦や男と女の関係はお金だけで繋がっているのでしょうか、経済的な関係だけで繋がっているのでしょうか。若しそうならば本当に悲しいことだと思うのです。
 若い男性が元気はないのは、男女同権の教育を受けながらも、その一方で旧来男が背負わされてきたものをそのまま背負わされていることに原因が少しあると私は思うのです。会社を背負わされ、「家」を背負わされ、学校教育と家庭教育のギャップが元気の出ない元なのではないでしょうか。女性は家庭教育で背負わされるものがだいぶん軽減されたということも言えるのかもしれません。若い女性の方が元気になって見えて当たり前のことなのかもしれません。夫たるものこうあるべき、妻たるものこうあるべきという概念が男性と女性で合致しない限り、いや夫たるもの妻たるものという固定概念を取り払い人間としていのち頂いたものあるものとしてという視点で相手と出会っていかなければなかなかこの現状を打破するのは難しいことなのでしょう、と思うわけです。(いうのは簡単なことなのですけどね。)
 このお文は「そもそも男子も女人も…」という言葉から始まってます。ですから浄土真宗の教えは男も女も共に助かっていく道、共に幸せになっていく歩みといっても差し支えないのではないでしょうか。性別が違っても、その他のものが違っていてもある意味違いを個性ととらえ互いを認め合いながら「みんな」が幸せになっていく道が南無阿弥陀仏とお念仏を称えていく生活なのでしょう。
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井波別院法宝物御巡回
2月18日(月)午前9時30分より後3時30分まで
会 場 常入寺庫裡座敷
布教使 藤井 乗 師

ご近所の方をお誘いの上是非お参りください。おまちいたしております。