216 御文をいただく20

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7月25日より8月31日は子どども月間

仏様の前でお参りして菓子をもらおう!

お寺のものがお参りに来たとき、
中学生以下の子ども達がいっしょにお参りをしたり、うしろで最後まで座ることができたら、お参りカードをあげるよ!
9月になったら、
お菓子の詰め合わせと交換しま~す!!
御文をいただく 其の二〇 二帖目第二通⑪

うたがい
この社会で生活をしていると「信じる」という言葉をよく耳にします。私なんかはすぐにうさんくさいな、と思ってしまうんですけど。これもちょっと弱ったことなんですけどね。よく私たちも人に言いますし、人からよく聞かされる言葉です。私なんかも子ども達によく言ってるような気になってきました。「信じてるよ」って。そして子ども達から「わかった」と反応が来たり無反応です。でもこんなとき、本当に信じているから「信じてるよ」と言ってるのでしょうか。自分を振り返れば疑問に思ってしまいます。少し疑いの心があるからこそ「信じてるよ」と念を押すのではないでしょうか。
 もしかしたら完全に信じていたら「信じている」という言葉は全く必要の無い言葉なのかもしれません。どこか信じ切れないところが私たちにあるので「信じているよ」と念を押したり確認したりしてしまっているのかもしれません。私たちはいつもどこかで疑心暗鬼になって生活しているのかもしれせん。
 人間関係の中でさえ信じ合えない私たちですから、ほとけ様との関係も完全な信頼関係というものは結べないのかもしれません。ましてや私たち人間の自分勝手なお願い事を一切かなえてくだされない阿弥陀如来様へはある意味当然信じれるわけがないのかもしれません。
 私たちはなぜあらゆる存在に対して完全に信頼できないのでしょうか。私たちが他に対して信頼できる基準はどこにあるのかと言えば、やはりそれは自分の思いにどれだけ返してくれるかと言うことでしょうか。意にそぐわなくなるとどんどん信頼がなくなって疑っていってしまいます。どこまで行っても自分が基準になってしまってます。そこに問題があるというか不確かさがあるのではないでしょうか。だから信頼が安定しないのかもしれません。
 疑わずに信じようとすればするほど信じ切ることができなくなっていくのが人間だそうです。これは心理学上でも言えることだそうです。阿弥陀如来様にたいしても同じ事なのかもしれません。阿弥陀如来を信じようと歩んでいくのが浄土真宗の信心の歩みではなく、阿弥陀如来が私たちに光を当て照らし出してくだされている私のありよう、「罪悪深重煩悩熾盛」のなる姿を阿弥陀如来様のお仕事として受け止め、その事実にうなづき、疑いをのぞいていこうとする歩み事私たち浄土真宗を宗旨とするものの歩みなのではないでしょうか。言い換えるならば浄土真宗の信じるは、疑いを少し私の歩みとして取り除いていこうとする歩み罪悪深重の我が身にうなづいていくなのではないでしょうか。