213 願いが力となる

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 先月、本山の研修会に参加しました。夏休み期間中本山で開催される「真宗本廟子ども奉仕団」という、本山で行われるお寺の日曜学校のようなものの事前研修会でした。十数年ぶりの参加ということがあって少しドキドキしながらの参加でした。しかしその感情は次第に懐かしさに変わっていきました。私は生まれも育ちも同じところですが、まさに「ふるさと」に帰ってきたような感じでした。自分はここで育ったんだなぁっと。
 私にとって子ども奉仕団という場も、その事前研修会という場も安心できる場でり、そして何でも言える場で、それを許してくれる場でした。今も変わりなくそういう場でした。まさに心のふるさとであり、心の実家といってもいいのでしょう。
 そういう場であると思うのは私だけではなく、このことに関わったことのある多くの方が同じような感覚を持っておられるようです。それは、参加する人々がそういうことを許してくださったり、そういう場にしたいと願っているからそういう場になるのでしょう。場が力となっているとも言えるのでしょう。願う人々が多かったり、願いが強かったりすると、その願いが何らかの形となって現れてくるのではないでしょうか。
 南無阿弥陀仏というお念仏も願いが形となって私たちの前に現れてくださったものだと思います。法蔵菩薩という求道者が、仏となりたいと願い、その願いが他の仏様たちに認められ仏となり、阿弥陀仏と名告られました。阿弥陀仏となった願いがまた私たちのところに運ばれてきて南無阿弥陀仏という声が私たちのまわりで響き渡っています。そしてその声を聞いたものが阿弥陀仏の願いに気づき,その願いのかなった世界に生まれよう(近づいていこう)と願い歩み出して(表現して)いくのです。また阿弥陀の願いに出会えたことを喜び南無阿弥陀仏と声を出して阿弥陀仏の願いに応えていくのです。
 子ども奉仕団という場も私の願いが形となったというより、すでに願いがすでに子ども奉仕団という形となって私の前に現れてくださり、その願いに私が応えようとしているだけのことなのかもしれません。そしてそのことが自分の生きる力となっていくことなのでしょう。