211 天上天下唯我独尊

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 仏教を開かれたお釈迦さまは、いまから約二五〇〇年前の旧暦の四月八日にお生まれになられたと言い伝えられています。そして、お釈迦さまの誕生は母であるマーヤ夫人の右脇の下からお生まれになり、すぐに四方に七歩ずつ歩き、右手は天、左手は地を指して「天上天下、唯我独尊」と宣言されたと言い伝えられています。「そんなあほな」なんていう声が聞こえてきそうです。私たちの常識からいえばあり得ない話としかいいようがないかもしれません。母親の右脇から生まれになられたとか、生まれてすぐに歩いたとか、すぐにおしゃべりになられたとか。
 この伝承を疑うのも自由ですし、まことであると思われるのも自由なことだと私は思っています。ただ、この伝承が私たちが生きている時代まで受け継がれている事実はしっかり受け止めなければならないことでしょう。そのこと間違いなしと思われた方や、そうであっても不思議ではないと思い伝えてこられた事実があって私たちの時代まで受け継がれているのです。それだけは間違いのない事実です。
 お釈迦さまはお生まれになられてすぐに「天上天下唯我独尊」と仰ったと言い伝えられています。天上天下、この世の中で、唯我独尊、我独り尊し。この世の中で私独りが尊いのだ、そういう意味なのでしょうけど。一番えらいという意味ではないように私は思えます。
 お釈迦さまの言葉として『仏説無量寿経』というお経の中に「人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ独り死し独り去り独り来りて、行に当り苦楽の地に至り趣く。身、自らこれを当くるに、有も代わる者なし」と書きとどめられています。私たちの人生は、独りで生まれてきて、独りで死んでゆく。ひとりぼっちと考えれば非常に寂しい限りのことです。でも私はひとりというのは尊いことだといただきます。ひとりで生まれひとりで死んでいくということは、誰も同じ人生がないということです。双子として生まれてきても死んでいくときは別です。また同じ遺伝子を持っていません。当然ながら人生も全く別のものです。だから性格が同じように思えますが、しかし全く同じではないのです。生まれた環境はいっしょであっても、育つ環境、生きる環境はやがて違ってゆくのです。経験も違いが出てきます。だから同じでなくなってくるのです。ですから私の人生を代わってくれる者がいないのです。人の人生を代われるはずがないのです。違いが特質になり個性となっていくのです。
 人間それぞれの人生なのだからひとりぼっちというわけではありません。ひとり同士というところでつながって生きていけるのです。互いの違いを認め、尊重しひとり同士として。
 唯我独尊とはお釈迦様はひとりだけ偉いということではな、ひとりということの大切さを知られたからこそ、かわったり出来ない、同じものがない人生と知られたからこそ、尊いお方なのです。