さわり

さわりというお代をいただいて次回お話ししなければならないので、走り書きというか、メモ書き。忘備録

碍…さまたげる。礙の異字対  障…さまたげ、邪魔をする、防ぐ、隔てる、仕切り
無碍光如来、…さわりなき光なる如来
無碍光如来より私たちがさわりあるものとして照らし出されている。
わたしたちはさわりを知らされるとさわりなき者になろうと歩のだけれども、
だけどたまにさわりなき者になったつもりになることもある。
仏は無碍、凡夫は有碍、梵輔がむげということはあり得ない。
障碍と障害
障碍を仏教語読みすると「しょうげ」と読むが、一般的には「しょうがい」と読む
しょうがいしゃは明治時代には障碍者と書いた。それが、1946年当用漢字表(公文書やメディアなどに用いるべき範囲の漢字)が掲載され、その中に「碍」の字がなかったので、障害者というように表記するようになったようだ。
その中で今、障害者と表記せず、障がい者、障碍者、「障害」者、「障害者」と表記する動きがある。
しょうがいしゃは「害」なのかという問いかけがあるのだと思う。
障碍者から、「私は害なる存在ですか?という問いかけがあってだろう。
害…損なう、傷つける、災い、災難、さまたげ、邪魔をする。
わたしたちは邪魔な存在なのですか?という問いなのだろう
「障害者」と書き直した人の意図はどうであれ、
でも、私たちの意識の中に邪魔な存在という意識が全くないわけではない。
そう思いたくなくても健常者として育ってきたら、ついそう思ってしまうのが現実では。
さわりを悪としていくのではなくさわりを徳としていく
”円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なり”
さわりを壊していくのではなく、乗り越えていくのではない。
さわりに跳ね返してもらう歩み
さわりによって修正しておらう。方向をただしてもらう。
さわりにはじき飛ばしてもらうことによってゴールに向かっていくことが出来る。
さわりこそ私たちにとって大事なもの。かけがえのないもの。さわりがなかったらどこに行くかわからない。
さわりは害ではなく、大事なものなんだ。個人的にはいやなものだけど、痛いし、だから得ではない。
私個人の感覚からすれば痛いもの損したものという意識がある。
浄土へ向かっていくための働き、修正装置なのでは。だからさわりが如来の徳。そのことが南無阿弥陀仏を称えることによって、知らされる。如来の光によって、光なる如来によって知らされる。

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