210 弥陀の報土

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弥陀の報土
 弥陀の報土というのは、お浄土とも言い浄らかなという意味です。一方私たちが生活している世界を浄土教仏教では、穢土と言い当ててきました。汚れ穢れた世界ということで、ここにずっといていい世界ではないということは一面で言えることでしょう。そういう意味で言えば穢土が出発点で浄土が終着点であったり目標地点ともいえることなのでしょう。
 でもただ浄土に何も考えずに向かっていけばすむものではないような気がします。なぜ浄土に向かっていかなければいけないのかそのことを再確認し続けなければいけないような気がしてなりません。浄土はなぜ浄らかなのか、なぜ私たちの住んでいる世界を穢土、穢れた世界であると言い当ててこられたのか。そのことを訪ね続けなければ浄土への近道を歩めないような気がします。
 浄土は私たちの行き先でもあるのですが、もう一つ私の世界私の生活を照らし出してくだされるというというはたらきもあります。お浄土に生まれなければならない我が身であることを諭しくださっています。
 阿弥陀如来の救いが私を浄土に生まれさせてくださるというだけだと、信じ切れない思いが私にはわいてきます。未来のことの約束だけなら。その確信をなかなか得ることが出来ません、疑い深い私ですから。本当なんだろうかという不安がつきまといます。やっぱりそのことを確信させてくれるものがほしいです。今阿弥陀如来を感じたいです。でも、念佛を称えてこられた先輩方は感じてこられたはずです。感謝の念佛といわれてきたわけですから、感謝するもので出会われてきたはずです。それは、浄土に生まれるしかない我が身を照らし出し続けてくださったはたらきだったのではないでしょうか。
 阿弥陀如来の救いは、未来において私を浄土に生まれさせてくださるというはたらきと、今においては我が身を照らし続けてくださり浄土往生しなければならない見という二つあるといってもいいのではないでしょうか。
 浄土は行くべきところであり、同時に行かなならんことをも教えてくださっているのです。