ほんこはんがつとまりました

先日、10月312日より11月1日まで当寺の報恩講を勤めさせていただきました。

報恩講は勤めるものではなく、勤めさせてもらうもんだな、なんて言うことを勝手に思ってました。
宗祖750回忌御正当の当寺の報恩講
なんて、ふと覆ったけど、急に思たこともあり、特別な報恩講というわけにはいきませんでした。
自分自身も最近一日一日をやりくりするのでいっぱい気味で考える余裕もなく、アイディアもわいてきませんでした。
報恩講に始まり報恩講に終わると言われている私達の生活です。
そういう意味で通過地点としての報恩講なんでしょうけど、
通過地点と言うことは、単に通過していくだけのところでなく、節目になるところなのでしょう。
チェックポイントです。
そして御正当の今年は本来なら大きな節目、
何となく大震災、原発事故に振り回されて、おたおたするだけの俺。
大震災、原発事故から問われていることがあるはずなのにそのことに気付けづにいる
大切な問いかけなんだろう。
御正当だから起きた大震災、原発事故、という風には思わないけど、
不思議にも、奇しくも、御正当に起きた大震災、原発事故、その他の自然災害など。
竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。しかればすなわち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり。これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萠を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す。かるがゆえに知りぬ。円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと。
この教行証文類の総序のもんを思い浮かべる。
悪を転じ徳と成す正智、これが念佛なんだろう
転悪成善でもなく、転悪成得 でもない。
私にとっての悪を見つめ直すことができるのだろう、念佛は。
そんなことを独り勝手にに思わせていただきながら勤めさせていただいた報恩講でした。
御正蕩の当寺の報恩講、何かせねばと思い、ご万田だけは、無理を言って、八淘で勤めていただきました。
そんなことしか思いつかん私です。
ホントそんなことなんですけど、
そんなどうでもよいことしか思いつかん私が見せつけられた報恩講でした。
2011 11 01_0213.jpg2011 11 01_0215.jpg2011 11 01_0217.jpg

2011 11 01_0220_edited-1.jpg2011 11 01_0223.jpg2011 11 01_0234.jpg2011 11 01_0235.jpg

コメントする