203 御文をいただく其の17  五帖目第二通⑧ みなともに

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みなともに
 阿弥陀さんは私を浄土に生まれさせてくださるのですけど、私だけを生まれさせてくだされるわけではありません。「みなともに」浄土に生まれさせようと日夜常に励まれているのです。そういう意味では、私が一生懸命生きているから、阿弥陀さんのの願いを理解した、そういうことができた事へのご褒美として浄土に生まれさせてくだされるのではないということだと私は思うわけです。私たちの生活をみて助けなならんと強く思われてのことなのです。ですからあらゆる人々に救いの手を差し出されているのです。
 だけど私たちはその救いの手に全く気付かなかったり、自分だけ救われていこうとか、自分だけが救われているとしか思えていないのではないでしょうか。阿弥陀さんの「みなともに」という願いが受け止められず私たちは自分勝手に生きてしまっているのではないでしょうか。
 「親心子不知」という言葉がありますが、私たちはそういう子どものように親心をわからず生きてしまっていることなのでしょう。ある意味親心は親になってみなければわからないのかもしれません、同じように阿弥陀仏の御心、願いというのは私たちは仏にならなければわからないことなのかもしれません。しかし、全部は無理なことでしょうけど、少しはわかることはあるのではないでしょうか。
 私たちの先祖たちは、南無阿弥陀仏という言葉に出遇い、阿弥陀仏が私たちになぜ南無阿弥陀仏という言葉を運ばれたのかという願いに少しずつ気付いて行かれたことです。南無阿弥陀仏という言葉をいただきながら阿弥陀の願い、また南無阿弥陀仏を相続されてこられた私たちの先祖の思いに気付いていくことが大切なこととして私は思うわけです。