198 御文を戴く⑮ 本願を信ず

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 阿弥陀如来が佛となられるとき誓いになられた願いを私たちの先輩方は「本願」と呼んでこられました。その願いは私たちが正依としますお経には四十八種類の誓いが記されています。ですから本願のことを四十八願とも言うわけです。
 阿弥陀仏はわたしたち人間の生き方を見られ、悲しまれ、何とかしなければならないと強く決意なさって、佛となられました。佛という位につかれた阿弥陀仏は、私たちに救われるために佛なる私が作った世界に生まれたいと思うものを必ずその世界に生まれさせようと、お約束くださっています。そして今私たちに阿弥陀の存在、阿弥陀の願を知ってもらうために私たちに「南無阿弥陀仏」という言葉をお運びくださり、私のまわりで阿弥陀仏をほめ称える声として「南無阿弥陀仏」という声を響き渡らせてくださっているのです。
 本願を信ずるということは、この阿弥陀如来様が願われている本願を信じ念仏申すということであります。そのことに尽きるわけです。しかし、私たちが簡単に本願を信じて迷いなく南無阿弥陀仏とお念仏を申すことができれば、阿弥陀仏は強い決にて佛という位につこうとは思われなかったのではないでしょうか。私たちを哀れみ悲しまれるということはされなかったと思うのです。信ずることができればそれに越したことはないのでしょうか、そんな簡単に私たちが本願を信じ念仏申すとも阿弥陀仏は思ってはおられないのではないでしょうか。
 阿弥陀仏は私たちのもとに今お念仏をお運びくださるというお仕事をなさっておられるわけですが、もう一つ、大きなお仕事、お働きをなさっています。私たちが心から本願信じ念仏も失せるよう働きかけ続けてくださっているのです。私たちは本願信じ念仏申すしかたすかる道はないという事実をお教え続けてくださってます。太陽のように輝かれ私たちに光を当ててくださってます。阿弥陀仏が哀れみ悲しまれた私たちの姿を私たちに伝えんがために。罪悪深重煩悩熾盛なる姿、罪深く煩悩に満ちて迷い続けているその事実に気づけと私たちのありのままを明らかになさっているのです。
本願を真実ということはある意味、阿弥陀仏が私たちに指し示してくださっている私たちの姿を人汁、その事実に頷くということとも言えるととと思うことなのです。