願いより動きへ

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 お寺や神社は自分の願いをかなえてもらうために祈るところ、と思っている人は多いのではないでしょうか。確かにいろんな御利益を売りにしているお寺やお宮さんはたくさんあります。合格祈願、恋愛成就、交通安全や家内安全といった御利益。また、厄除けや病気平癒など嫌なことを消滅する御利益、などなど。日本に生活をしていると神様や仏様に自分の願いをかなえてもらうためにお参りをすることは当たり前の在り方のように思えます。しかし、御利益を求めお参りをすることや、お守りを求めることが、本当に効力があると思っている人は少ないのではないでしょうか。願ったとおりにならなかったからといって、裁判所に訴えたという話はあまり聞いたことがありません。ある意味、気休めでしかないことを実は私たちは結構わかっているのです。わかっていながら、だんだんとはまり込むのです。
たとえば、交通事故にあったのは交通安全のお守りを忘れたからだとか、商売がうまくいかなくなったのは始めた日が悪かったからだとか、また不幸が続くのは自分の名前の画数が悪いからだとか。問題の原因さがしに追われたり、もっと効力のあるところをさがし求めたり、どんどん振り回されていってしまうのです。
自分にとって良いことを追い求め、都合の悪いことをさけようとする、これは人間の性分といっていいのかもしれませんし、なかなかやめることはできません。しかし、良いことだけを追い求める生き方は、必ず悪いことを恐れたり,おびえたりするようになってしまいます。
どのような状況に投げ出されたとしても、自分の人生は誰とも代わることはできません。またそれは同時に誰とも代わる必要のない人生なのです。責任を他に押しつけない生き方は、良し悪しを越えて、現実の自分の人生と向き合っていこうとする生き方の表現なのです。
お寺に来て何かのお願い事をすることがいけないことなのではありません。それで安心して終わりにしてしまうことが問題なのです。お寺で願ったことに対して自分は何をしなくてはならないのかということ明らかにしそのことを仏様に誓い、平生の生活のなかで誓いにかなう生活をしていくことがもっと大事だと思います。そういう平生の歩みこそ仏様は常に見ておられます。お参りをしてほっとしてこれで終わるのではなく、目標に向って歩み続けること、行動することが目標をかなえる最も近道であり、何より大切なことです。

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