194 今だから見えてくるもの

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 二〇一一年という新しい歳を迎えました。本年は本山において親鸞聖人七五〇回御遠忌法要が勤まるという節目になる歳であります。皆様本年も昨年同様よろしくお願いいたします。
 さて、昨年を振り返れば、どうなっているんだろうという事件が、テレビなどを見ていますと沢山目に飛び込んできたような気がします。幼児虐待、反対に親が我が子をわがてで殺すなど、その度目を背けたくなる事件がたくさんあったような気がしてなりません。こういう事件を眼にすると『イヤな時代になったな~』『人間がおかしくなったのでは』とおもったり、『昔は良かった』『大事なものを忘れてきたのでは』と思ったりもします。私もそう思うのですが、でも一方でそうなのだろうかとも思うことがあります。本当に人間が変ったのでしょうか、私たち人間の根性が変ったのでしょうか。そうではないような気が私はするのです。
 たまたま今まで私たちの根性が見えにくくなってたりしてただけなのではないでしょうか。経済的に豊でなかったり、ものがなかった「昔」は独りでは生きていけない、みんなで生きて行かなくてはならないという思いが強くあったのですが、経済的に豊になった今、「ともに生きる」という必要性が見えにくくなり、自分の幸せだけを追求していったり、自分の思いだけを通すことのできる時代になったのではないでしょうか。その中で私たちの奥に隠れていた「悪い」根性が表に噴出しやすくなってきただけなのではないのでしょうか。わたしたち人間が変ったのではなく、ただ隠れていたものが表に出てきて眼に入るようになっただけだと思うのです。
 私たちを救ってくださる阿弥陀如来は私たちを救うために佛と成られ私たちを今救済してくださっています。阿弥陀如来からすれば私たちは救わざるをえない存在だったのです。佛になって救ってやらなければならない生き方をしているように映っているのです。そういうすがたが、私たちがこのままでは救われていかない生き様が、こういう時代のおかげで目につくようになってきたのではないでしょうか。
 目を背けたくなる事件を見て「イヤな時代になった」「なんて悪い奴だ」と思うことにとどまらず、目を背けたくなる事件を起こすためが私のなかにもあるのだと気づいたり、頷いていくことが大切なのではないでしょうか。
 そういう私たちのために阿弥陀如来が手向けてくださった南無阿弥陀仏というお念仏を称えていく道、人生を送っていかなければならないと思うわけです。
 阿弥陀如来の悲願が頷きやすい時代に今なっているのです。