189 無関心という罪

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無関心という罪
 近年縁あって差別のことをずっと学んでいる。本当にいろんな人にお会いさせて頂いたことだ。そしていろんなことを学ばして頂いた。今思っているというか考えさせラテていることが「無関心」ということの罪だ。
 差別という現生の中に、差別する人とされる人がいる。いうまでもなく差別する人が問題なのだ。差別される人には何の罪もない。また、どんな理由があっても、差別して良いということは絶対にあり得ない。差別するものが変っていくこと、差別をしないようになることによって差別はなくなっていくものだ。
 最近差別についてもう一つの立ち位置があることに気づかされた。それは無関心というか、差別を自分の問題としないで何のアクション、行動を取らないという位置だ。よくよく考えれば、差別する人も差別される人もそんなに多くいるようには思えない。大多数はどちらにも所属しない。しかしその中で差別することが継続されている。もし大多数が差別に対してノーというアクション、表現をすれば差別は続けることが出来るだろうか。
 今年春の頃テレビのニュースなどでは、沖縄の基地の問題、とりわけ普天間基地のことが取り上げられていた。そのときあるニュース番組で沖縄の人が沖縄に基地が集中していることに対して、これは「沖縄差別だ」と仰っておられた。その事が印象的だったし、ドキッとさせられた。自分に言われたような記になった。自分自身、沖縄にあこがれのようなものを持っている。十年ぐらい前、沖縄で開催される本山の研修会に参加しようと沖縄へ飛行機で行ったけど、残念ながら沖縄の地の立つなり、携帯電話が鳴り、帰ってきてほしいといわれ、泣く泣く数時間の滞在で帰路についたことがあって、なおさらあこがれのようなものを感じる。自分の中では沖縄を、沖縄の人を差別しているという自覚は当然全くなかった。そういう意識の中で「沖縄差別」という声が聞こえてきてビックリしたし、ドキッとした。
 沖縄の人からすれば、沖縄に基地を押しつけようとする人たちも、そのことに無関心であったりしてそのことに何も表現しない人も一緒なんだろう。何もアクションを起こさないということは肯定していることと何ら変わりないということなのだろう。差別を否定しないものは差別していることと等しいということなのだろう。私たちがそのことが差別であると認知していようがなかろうが全く関係のないことなのだろう。
 差別を意識してすることは当然人として許されることではありません。また、見て見ぬ振りをすることも、差別を差別として認知できないこと、差別を見ようとしないこと、そういうことも結果差別されている人を苦しめていることになるのです。人として生きたいという叫びをしっかり聞き取れること、叫びと認知できることが私たちが共に生きていく歩みの中では本当に大切なことなのではないでしょうか。
 こういうことを考えていくと、私たちは自分の無関心ということでどれだけの人を苦しめてきたことなのだろうと思ってしまう。人が人を差別することの悲しさ、人を傷つけることの悲しさをどれだけ知っていくかということによって共に生きるという終わりなき歩みをずっと歩んでいくことが出来るのではないだろうか。

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