188 御文をいただく 其の十二 五帖目第二通③

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御文をいただく 其の十二 5帖目第二通③
 蓮如上人がおが書きになられた御文の中で私の好きな御文の一つがこの御文です。だけど少し気になる表現もあるのもこの御文です。どこが気になるのかと言えば
たとい一文不知の尼入道なりというとも
というところなのです。
 なぜ八万の法蔵を知るものの反対の言葉が一文不通の尼入道なのか、と思うのです。尼入道という言葉は必要ないのではないかと私は思うのです。蓮如上人の女性に対する差別心のようなものを感じてしまうのです。いうまでもなく蓮如上人は女性弥陀の慈悲によってすくわれていくということをよくおっしゃっられたお方です。その方がなぜこういう表現をされるのだろうかということを現代医社会を生きているわたしは疑問に持ってしまうのです。
 ただ蓮如上人が生きておられた時代は女性に対する偏見は今以上にすごい時代だったことは間違いありません。社会の常識として、男性より女性は救われがたいものという考え方があたりまえのこととしてありました。というか根強かったわけです。その中で女性が救われるのだと強調することは本当に意味のあったことだったことでしょうし、女性に生きる力を与えた言葉なのでしょう。
 しかし現代は女性に対する偏見が全くない時代とは言えませんが、そういうふうになることを願っている人が沢山いる時代です。女性が解放されていくことを願い、男女が共に生きていける世界を願っているものにとって今、蓮如上人のこと言葉が力になるとは私は思えないのです。今の時代には響かない言葉になってしまったということは間違えないことでしょう。
 さて、後世を知らないものが浄土門を求めるものにとっては愚か者であり、後世を知る者が智者だと言われています。しかし智者は知る者とは書かれていません。智慧の智が使われています。ということは浄土真宗では愚か者の反対の言葉は、知識を沢山持ったものということではなく、仏の智慧を知る者、仏智のはたらき(恵み)を知っている人となることなのでしょう。そして、知識あるものは必ず智慧を知っていることにはならないということです。仏道を歩むということはあらゆる知識を頭の中に詰め込んでいく道ではなく、仏智より知らしめる我が身の後世について頷いていく道なのではないでしょうか。

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