空しく過ぐる

本願力にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし

これはいうまでもなく親鸞聖人がお造りになられた和讃です。そしてよく葬儀の場で儀式として読誦されているものです。本願に遇えば空しくないのだ、ということなのでしょう。

これからの人生本願に遇えば空しくはない、充実した日々になるのだ、というふうに読み取っていたんですけど、最近そういう理解にちょっと疑問を持つようになった。
未来ではなく過去のことなのかな、なんてなぜか、何となく思うようになってきている。本願に出会えたことを喜べたならば、我が人生に無駄はなかった。本願に出会うためのプロセスだったんだ。なんていう感じなのかな、なんて思うようになった。
私たちは生きている中、空しさを抱くことがたびたびある。
でもそれは未来から来るものではなく、過去から来るものではないのだろうか。
俺の人生って何だったんだろうか。
無駄ばっかりだったな。
なんて考えていく中で空しさという感覚が湧いてくるのではないかな。
充実感がない、これは過去から来るものだ。と思う。
そういう中、ナムアミダブツという言葉に出会い、そしてその歴史に出会う中で、
信心という課題を頂く
そして、

人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。

という仏法との出会いが生まれてくるのではないだろうか。

仏法に出会えたことに喜びを持てるとき
私のいままでの人生は仏法に出会うためのプロセスだったのだ。何の無駄もなかったと。自分の人生を頂き直せるのではないかな。
仏法に出会えた喜びが芽ばえたとき、初めて空しさが仏法により吹き飛ばされていくことだろう。

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